松本さんに認めてもらえた。その事実が僕を支えてくれました

──ピン芸人になったのは、'08年ごろとのこと。当時はどんな活動をしていましたか?

そもそも、コンビを組んでいたときから吉本の劇場メンバーにはなれていないんですよ。劇場メンバーになるにはオーディションを勝ち抜かないといけないんですけど、なかなか結果を残せなかったんで。主戦場は、何百という芸人が出ていたインディーズライブでした。学園祭の延長みたいな雰囲気で、プロ意識もそんなにない人たちばかりで。僕もそこまで深く考えることなくピン芸人になりました。なったものの、ピンでやっていけるとはまったく思っていなかったです

──ともあれ、『R-1ぐらんぷり』では'10年以降、毎年準決勝に進んでいましたよね。

「うーん……実は、それが一番しんどかったんです。1、2回戦で負けるなら“ムラがあるのかな”とか“ネタチョイスが悪かったのかな”と思えるんですけど、毎回準決勝で落ちると“実力不足”というほんまの壁を感じるんですよ。俺はもうここまでの芸人なんかなという状況が6年も続いたんで、さすがにきつくなりました。'16年には、“これで最後にしよう”と思っていました

──そんな'16年に、初の決勝進出を果たしました。勝因は何だったのでしょう?

もう最後だと覚悟を決めていたんで、それまでとネタ作りに向かう姿勢がちょっと違ったんです。最後だと思ったらめちゃくちゃこだわりたくなって、それまで周りのスタッフさんに気を遣って言えなかったことも、“これ、用意できますか”“音はこうしたい”と、たくさんわがままをいったんですよ。そうしてネタを作っていく過程が、すごく楽しかったんです」

──それまで以上にピュアにお笑いに向き合った結果ですね。モチベーションは変わりましたか?

「準決勝が終わった時点で“続けよう”という気持ちになっていました。初めて準決勝で目いっぱい努力できたから、“まだいけるわ”って思えたんですよ」

──息を吹き返したんですね。

「なにより、'16年のR-1決勝でボロ負けした翌々日に、『ワイドナショー』(フジテレビ系)で、松本さんが“ネタは、おいでやす小田がいちばん面白かった”と言ってくれたんです。それがすごくうれしかったんですよ。多分、R-1で優勝してもこれ以上にうれしいことはないと思います。松本さんに認めてもらえた。その事実が僕を支えてくれました

──ずっと憧れていた人ですもんね。

「あの日のことは今でもはっきり覚えています。パチンコの営業で司会をした日に、タクシーの中で何の気なしにツイッターを開いて、『おいでやす小田』でエゴサーチしたんです。そうしたら、“松本人志 おいでやす小田がネタで一番”という記事が目に入ったんですよ。それを見た瞬間に体温が上がって、“ガン!”と血が逆流したような感じがしました。21年くらい芸人をやっていますけど、一番うれしかったことといえばそれですね。

 しかも、このころから笑福亭鶴瓶さんが連絡をくれたり、藤山直美さんが“面白い”って言ってくれたりして、超一流の人が自分の名前を出してくれるようになったんです。自分では“自信がついた”なんて思わないですけど、“この人らの目が間違っている訳はない”とは思っていました

憧れのダウンタウンの話は、とくに熱がこもる 撮影/高梨俊浩

ピン芸人の僕は“漫才主体の劇場”であおりを受けた

──決勝進出以降、仕事量に変化はありましたか?

「多少は増えました。でも、増えたから見えるようになったこともあって。漫才師とピン芸人の間に壁があると、はっきり気づいたのもこのころです。大阪って、やっぱり漫才文化が色濃いんです。お客さんは漫才を見たいから、営業に行くのも“ピン芸人”じゃなくて“漫才師”。ピン芸人を出すくらいなら、無名の若手でも漫才師を出したいんです。結局、僕が呼ばれる機会はあまりなかったです」

──だから、決勝に進出しても爆発的には仕事が増えないんですね。

「それに、僕が出ていた劇場の名前が『5upよしもと』から『よしもと漫才劇場』に変わりましたからね。当初は本当に“漫才”主体の劇場で、コントとピンは1組ずつしか出られなかったし、別枠みたいな扱いを受けていました。“さあ、ここからピン芸人のネタを見ていただきましょう”みたいな、言わんでええことも言われていましたね。今やすごい劇場になってるし、M-1チャンピオンも輩出しているくらいやし、その考え自体が間違ってるとは思わないんです。ただ、僕はあおりを受けた人間ではあります

──ちなみに、当時の収入は?

R-1の決勝に出てからも、5〜7万円くらいやったと思います。僕だけじゃないですよ? 当時の関西のピン芸人はだいたいそんな感じでした」

──その状況だと、東京進出しようという考えも自然に出てきそうですね。

「そうですね。'17年くらいから本格的に考えるようになって、'18年の春に東京に来ました。この選択は正解やったと思います。最初の3か月は、劇場のスケジュールが決まっているから出番はいっさいなくてバイト三昧(ざんまい)やったんですけど、それ以降は劇場にも出られるようになったし、配信番組の司会の仕事も結構あって、関西にいたときよりは仕事が増えました。ギリギリの生活ではあったんですけど、半年たったころには芸人の仕事だけで食っていけるようになりましたね

上京してからも、しばらくはアルバイトをしていたという 撮影/高梨俊浩