10月、誕生日を迎えた
30歳という年齢は、無茶をして派手に転んだ時に周囲から笑いが起きるよりも先に心配されてしまい、「俺オッサンだからさ〜」という言葉が「自虐めいたギャグ」から「悲壮感を纏った告白」に変わる、憂える転換期だ。
そんな重すぎる三十路への階段を上った僕は、ホテルのチェックインで年齢を記入する際、十の段に「2」と書いてしまい慌てて「30」に書き換える経験を何度も経て、ようやく30歳に慣れてきた。1年間かけて「20代の間で流行!」という文言にも変に躍らされないようになった。
やっと、遂に、どうにかして、自分が30歳であることを受け入れたその瞬間、暦は2022年10月、僕は31歳になってしまった。あぁ、なんて残酷。今年も僕はバースデーを迎えてしまったのである。31歳に慣れるのには何年かかるのだろう。31歳に慣れた時、僕は何歳になっているのか。楽しいはずの誕生日はいつから憂鬱なメランコリーバースデーになってしまったのだろう。
憂鬱なバースデー
「本日の主役」と書かれた襷型のパーティグッズを一度は目にしたことがあるだろう。誕生日を祝われる人にそれをつけるのが定石であるが、その言葉の通り誕生日を祝われる人には主役感が必要になってくる。主役は主役らしく堂々としていなくてはならなく、漫画の主役よろしく常に感情を読者、つまりお祝いをしてくれた人に伝えなければならないのだ。
僕はこの主役感が苦手だ。アカレンジャーよりアオレンジャー、桜木花道よりも流川楓に惹かれ、ラーメンYouTubeチャンネルを始める時もSUSURUという主役を後輩に頼み、自分はその後ろで編集運営に隠れた。主役の、注目を一点に集めて何かを発しなければならないプレッシャーが耐えられないタチなのだ。
そんな僕でも1年に一度の主役になれてしまう日が誕生日だ。そんな誕生日のお決まり事の中で特に許せないのが、ハッピーバースデーの曲である。「ハッピーバースデートゥーユー」というケーキなどと共に歌われる定番のこの曲だが、お祝いの曲にしてはあまりに長すぎる。結果、主役顔をしなければならない時間が長いのだ。
電気が消されて蝋燭を立てたケーキと共に人が登場したら、まず驚きとはにかみの表情を浮かべればいい。しかし、ハッピーバースデーの曲をみんなから歌われている時、表情ひとつでやり過ごすにはこの曲は長すぎる。突然「あなたは主役です」と言われた時にできる主役ヅラのレパートリーを僕は持ち合わせていない。お祝い自体はとても嬉しいことで喜んでいるのだが、それを表情に出すことができないのが僕の欠点だ。
長いバースデーソングを聴きながらワンパターンの笑顔で蝋燭の火を見つめているが、本当は上の蝋燭が溶けてきてしまうのではないか、と気が気でない。舞台の主役だとしたらとんだ大根役者だ。スポットライトを当てる照明さんも舌打ちをしているだろう。
そんなとても陽気で喜ばしいハッピーなバースデーソングが、憂鬱なお経のように聞こえてしまうようになったのは、この主役からの逃避本能のせいであり、高校生の時にもらった誕生日プレゼントが原因でもある。
僕を狂わせたパンツ
高校2年生の時。その日は普通の登校日であり、いつも通り授業を受けてるフリをしながら、色んな女優との妄想デートプランを考えていた。2限の数学の教科書を開いたまま4限終了のチャイムが鳴り、柴咲コウとのデートを午後の授業の課題として持ち越して昼休みに突入した。そこで、ひとりの同級生が今日が僕の誕生日であることに気がついた。
テスト前にノートをよく見せてくれる彼の、誕生日まで把握している律儀さに感動したのも束の間、何もないけどと言って食堂でプリンを買ってきてくれた。プリンが特別好きというわけではないが、僕は気恥ずかしさを隠すために教室中を走り回り、プリンをまるで初孫のように抱きかかえて喜んだ。すると、それを見た同級生が「どれだけ矢崎を喜ばせることができるか、プレゼント対決をしよう」と言い出した。
僕しか得しない最高の神企画の提案に胸を躍らせる反面、何パターンのリアクションをしなければならないのだろう、というプレッシャーも重くのしかかった。しかし、何か僕にあげられるものはないか、と早速自分のバッグを漁ったりロッカーに走ったりする友人たちを止めるなんてことはもちろんできなかった。
まず、ぶっきらぼうな「おめでとう」と共に差し出されたのは千円札だった。それは野呂という友人で、高校生なのにサイゼリヤで躊躇なくハンバーグに肉サラダとスープ、ライス大盛りの豪華セットが注文できて、『私の頭の中の消しゴム』に号泣する僕を横目に真顔でポップコーンを食べていた彼らしい、感情こそないが高価で実用的なプレゼントだった。高校生にとって十万円の価値のある野口英世を両手に掲げ、僕は教室を二周した。
その後続いたプレゼントは、たまたまバッグに入っていたという卑猥な雑誌。中学から男子校で男子校5年目に突入していた僕らからすると驚きも少なく、みんなで一通り一番興奮するページを発表するなどして盛り上がったところで、「たまたまバッグに入っていたシリーズで俺もいいすか?」と声をあげたのが僕の後ろの席の吉川だった。
彼はバッグから片手で掴めるほどの大きさの透明なケースに入った何かを机に置いた。それは、テリー伊藤の人形だった。かなりデフォルメはされているが、その特徴的な眼鏡とハットはケース越しに見ても、間違いなくテリー伊藤だった。「テリー伊藤の人形」というものがこの世に存在した驚き、しかもそれがたまたまバッグに入っているという奇跡に感動すら覚えた僕は、この勝負の優勝を吉川に捧げようとした。
「嬉しさとしては正直かなり低いけど、プレゼントは嬉しさだけじゃないと気づかせてくれた吉川が優勝です」と言いかけた僕に、「待った」をかけたのが青山という友人だ。
「最後に僕からもいいすか?」
まじかよ。このハードルの高さをどうやって越えてくれるのか。テリー伊藤以上の新しい出会いへの期待と共に、青山本当に大丈夫か、と心配があったのも事実で、周りの友人だけでなく机に広げられた卑猥な雑誌の艶かしい女性の表情もどこか不安げに感じられた。
青山がバッグから取り出したのはパンツだった。それは鮮やかな水色にレースをあしらったパンツというかパンティーと呼ぶのが相応しい代物で、つまりは女性用のパンティーだった。いくらバッグから卑猥な雑誌が出てきても納得してしまう男子校という特異な空間とはいえ、バッグからパンティーが出てくる状況に、百戦錬磨の男子校生徒の僕らも一瞬たじろいでしまった。
「何でそんなもの持ち歩いてるの?」テリー伊藤の人形の時とは違う意味で僕は尋ねた。
「え? いざという時のため?」
女性用のパンティーがあってよかった〜、なんて状況がテリー伊藤の人形以上に想像できない。むしろ「いざという時」に邪魔になることの方が多そうな、犯罪の香りすらするそのパンティーを素直には喜べず、何とか笑ってみたもののその笑い声は多分秋の空よりも乾いていたと思う。
「これじゃあ足りないっていうのか?」教室を一周もしない僕に唇を尖らせて青山は言った。
そして彼は勢いよくズボンを下ろし、獲物を狩る虎のような速さで自らのパンツまでをも脱いで、そのパンツを僕に差し出した。光沢のある水色のパンティーと重みを感じる漆黒のパンツが机に並んだ光景に気圧され、これ以上パンツをもらうわけにもいかず、青山の優勝でこの対決は幕を下ろした。
結局パンツを返すわけにもいかず、その日青山はパンツを穿かない状態で過ごすことになった。僕は自分のリアクション次第で、友人をノーパンで帰らせることになってしまうこともある、という恐ろしさを知った。誕生日の主役になったからにはそれだけの責任があるのだ。やはり僕は主役には向いてないな、持ち物検査があったらどう説明しよう、と考えながら2つのパンツを卑猥な雑誌に挟んでロッカーにしまった。
ハッピー・デス・デイ
『ハッピー・デス・デイ』という映画は、クラスメートには無愛想で性格の悪い高慢なブロンド女性の主人公が誕生日に何者かに殺され、殺されるたび誕生日の朝に戻ってしまうというタイムループものだ。何度ループしても殺してくる犯人を探していくうちに、彼女自身も成長していくというサスペンスコメディだ。
僕も誕生日に殺されるよりはだいぶハッピーなバースデーを送っていることにもっと感謝するべきなのかもしれない。殺人鬼に比べたらパンツにビビるなんて、自分の弱さに嫌気が差す。
映画自体は96分ととても見やすい長さでテンポもよく、体感的にはハッピーバースデーの曲より短い。
(文/矢崎、編集/福アニー)
【Profile】
●矢崎
LA生まれ東京育ち。早稲田大学文学部を中退後、SUSURUと共にラーメンYouTubeチャンネル「SUSURU TV.」を立ちあげる。その編集と運営を担当し、現在は株式会社SUSURU LAB.の代表取締役。カルチャー系YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」の矢崎としても活動中。
【今回紹介した映画】
●『ハッピー・デス・デイ』(原題:Happy Death Day)
『ゲット・アウト』などホラーに定評のある製作会社ブラムハウスが手がけた、2017年のアメリカのホラーコメディ映画。監督はクリストファー・ランドン、脚本はスコット・ロブデル。