目黒区の行政の中心地に。そして学校が移転してくる

 東急電鉄によれば、社内に現存している東横線のダイヤは1943(昭和18)年のものが最古で、当時の停車駅の選定理由も正確な資料が残っていないためわからないという。わかっている限りでの最古の停車駅データも、前出の『東京横浜電鉄沿革史』のものと同じだ。

 では、戦前の時点でなぜそんな停車駅になったか。『地図で読み解く東急沿線』(三才ブックス)の監修者で、横浜都市発展記念館研究員の岡田直さんに見解を聞くことができた。まず学芸大学駅については、

「当時は碑文谷駅の名称で、1936(昭和11)年、駅の近くに東京市目黒区の区役所が置かれます。目黒区やそれまでの碑衾(ひぶすま)町の中心地だったことによるのではないでしょうか」と推測する。

 学芸大学駅が碑文谷駅として開業したのは1927(昭和2)年8月。当時、沿線は「荏原(えばら)郡」に属していたが、1932(昭和7)年10月1日に東京市に編入される。

 1936(昭和11)年4月に学芸大学の前身の青山師範学校が青山から世田谷区下馬に移り、学校の最寄り駅になったことで駅名を「青山師範駅」に改称。青山師範学校の移転地は現在の東京学芸大学付属高校がある場所だ。同年、現在の目黒区中央町二丁目に目黒区役所庁舎が完成し、こちらも青山師範駅が最寄り駅となる。学校の改称(※)にともなって駅名は「第一師範駅」(1943年)〜「学芸大学駅」(1952年)と変わってきたが、戦前の名残で急行停車は続いたようだ。目黒区役所は2003(平成15)年に中目黒駅が最寄りの上目黒二丁目に移転するまで当地にあった。

※1943年、青山師範学校と女子師範学校が統合して東京第一師範学校に。1949年、学制改革により東京学芸大学が発足した

 同じ目黒区にあっても、中目黒は1964(昭和39)年に地下鉄日比谷線が開通して乗換駅になるまで急行停車駅から外れていた。今では中目黒のほうが特急も停車し乗降人員も多く、逆転現象が起こっているが、かつてはこんな歴史があった。