反町の両隣に“幻の駅”があった

 横浜市神奈川区の反町には1900(明治33)年に海側から遊郭が移転し、以後、昭和初期まで妓楼の数は20数軒を数えたと『神奈川区誌』(1977年刊行)には記されている。しかし同誌によると戦中の軍による徴用、戦災と進駐軍の接収で姿を消し、戦後には住宅地につくり替えられていったという。

 また、戦前は反町と東白楽の間に「新太田町駅」、反町と横浜の間に「神奈川駅」と2つの駅があった。戦災と、駅の距離が近すぎるために両駅は戦後まもなく廃駅になるが、2つ駅が多かったと考えると、当時の東横線の急行も「停まりすぎ」とは一概に言えないかもしれない。

反町の両隣に新太田町・神奈川の2つの駅がある(東京都立中央図書館所蔵「東横・目蒲電車沿線案内図」の一部を抜粋)

 最後に気になるのは妙蓮寺駅と菊名駅。岡田さんは「横浜・桜木町方面へ向かう乗客を、横浜線に乗り換えさせないため菊名は通過させ、また、当時は妙蓮寺駅のほうが、周辺の住宅地化が進んでいて乗降客数が多かったため、代わりに妙蓮寺駅に急行を停車させた可能性があります」と推測した。

 前出の沿線案内を見ると、菊名には東急の分譲地が、妙蓮寺には駅の目の前の妙蓮寺と当時は行楽地だった菊名池が描かれている(名前は菊名池だが、最寄り駅は妙蓮寺)。菊名と妙蓮寺、どちらかに停車駅を絞るとなって妙蓮寺が選ばれたのだろうか。

 戦後には東海道新幹線開業に伴って横浜線と新幹線の接続駅として菊名の隣に新横浜駅が開業、新幹線アクセスも担い始めた菊名は現在、大型のキャリーバッグを持った旅行客もよく利用する(それも2023年3月の東急新横浜線開業で激減しそうだが……)。

 新丸子・反町・妙蓮寺が急行の停車駅から外れ、菊名と武蔵小杉が加わった時期は残念ながら突き止められなかった。ただ「かつて行楽施設があって栄えていた駅」と、「鉄道の乗換駅になって人が行き来する駅」の性格の違いが停車駅の変遷に影響したようだ。

 他方で、学芸大学が急行停車駅から陥落しなかったのは利用客の数ゆえと思われる。都内で乗客も多く、2000年代まで目黒区役所最寄り駅だった学芸大学に比べると、横浜側の“末端”の駅は明暗が分かれてしまったのも、やむをえないだろう。

 2000(平成12)年に目蒲線が目黒線と東急多摩川線に分離したため、東横線と東急多摩川線の乗換のために多摩川が急行停車駅に昇格。これでさらに急行停車駅が増えたものの、2001(平成13)年に停車駅を絞った特急が登場。2004(平成16)年に横浜~桜木町間が廃止になり、代わりにみなとみらい線の元町・中華街駅まで直通運転が始まって、東横線は現在の21駅の顔ぶれになった。特急は現在、中目黒・自由が丘・武蔵小杉・菊名と大胆に途中の停車駅を絞っているが、自由が丘以外の3駅は87年前の急行デビュー時は素通りされていた。奇遇にも3駅とも他社線との乗換駅で、他社とつながってネットワークを担う重みを示唆しているかのよう。

東京メトロ・東武・西武との直通運転で広いネットワークを形成するようになった

 郊外のちょっと猥雑な場所も通る行楽路線から、通勤・通学・都市間輸送と活躍する大動脈に。東横線のダイヤの変遷には、こんな沿線の歴史の移ろいも影響していた。

(取材・文/大宮高史)