嫌味なくらい晴れた日のグラウンドに、残酷な太陽光が降り注いでいた。誰もがクーラーの効いた部屋に引き籠もりたくなる八月のある夏の日、砂場に向かってある一人の男が全力疾走している。
彼の名はウゴモリと言う。とある中学校の陸上部の部長を務める彼は、走り幅跳びの選手だった。千葉の田舎で育った彼は、純朴で真面目な性格で、入部当初からサボらずに練習を続け、先輩や顧問の先生からも厚い信頼を得ていた。そんな彼も三年生になり、一週間後の総体、つまり彼の最後の晴れ舞台へ向けて猛練習をしているのだ。
試練のように降り注ぐ太陽の光に立ち向かうように疾走し、踏切板を力強く蹴る。ズシャアという音がして、全身が砂まみれになりながらも、自分の着地点をすぐさま確認する。その目には一点の曇りもなかった。彼は最後の総体に全身全霊を捧げていた。
ところが、そんな彼の努力は、数日後に起こる「ある事件」によって台無しになる。三年間の無垢で一途な努力は水の泡と化し、夢は粉々に打ち砕かれてしまう。希望に満ちたその目は絶望の色に変わり、無力感と喪失感に包まれ、大粒の涙を流す運命にあるのだ。
そしてその「ある事件」を起こす犯人は、ウゴモリと同じ練習場所にいた。
彼はウゴモリの練習場所とは正反対の方向にある、走り高跳びの選手が着地する用のマットの上で、昼寝を決め込んでいた。その場所はちょうど木の影によって日陰が作られ、ぬるい空気が滞留している。数日後に大事件を起こす彼は、もちろん高飛びの選手でもなく、総体に向かって練習をする懸命な選手でもなく、そして紛れもなく「僕」であった。晴天のグラウンドに突如雲がかかり、雨の気配が感じられた。
中学時代に陸上部に所属していた僕は間違いなく不良部員だった。不良とは言っても暴力や問題行動を起こしていたわけではない。ただひたすらに練習をしなかったのである。フカフカの走り高跳びマットの上で寝転び、ただただ部活の時間が過ぎ去るのを待っていた。
だがこの怠惰は、顧問がグラウンドに来ることをキッカケにして終わりを告げる。だから、遠くの方に顧問が歩いてくる姿が見えると、僕は急いで練習(をしているフリ)に取り掛かった。練習道具のない「陸上」という競技は、やってるフリ偽装工作に適していた。なんたって「走り出した瞬間から陸上部」なのである。マットから飛び起きて速攻で走り出し、ウゴモリなどの練習真面目勢に紛れる。そうやって顧問の襲来を凌いできた。
だが「怠惰が服を着て歩いている」とまで言われた僕は、これだけに止まらない。「顧問が来た後もサボりたい」という思いは当たり前のように消えなかった。もうここまでくると、なんで陸上部に入ってたの? という読者からの声が聞こえてくるが、当時の僕の気持ちはもはや今の僕にも分からない。顧問が練習場に来ると、僕は「ランニングに行ってきます!」と言ってグラウンドを飛び出し、外で「買い食い」をしてサボっていた。そしてその「買い食い」行為が起点となり、ウゴモリの青春は打ち砕かれるのである。
「Dクラスの中田が放課後にセブンで肉まん買ってるところを見つけられて、三日停学になったらしい」
僕のクラスにそんなような「買い食い事件」のゴシップが定期的に回ってきた。学校のルールで「買い食い」は厳格に禁止されており、見つかった瞬間に即アウト、如何なる言い訳も許されず、執行猶予なしで重い実刑判決が下される最大の禁忌行為であった。
しかしだからこそ、買い食いで食べるモノは旨い。絶対に食べてはいけないと言われると、無性に食べたくなるのが人間の性である。朝食で出されたとして残してしまうアンパンでも、買い食い中に食うアンパンは数百倍旨かった。いつもより餡の甘みが強く、生地の香りがより感じられる気がするのだ(念のために記すが、本当にただのアンパンである)。
「アンパン買いに行かね?」
事件勃発のその日、200m走のオクヤマから甘い誘いを受けた。僕は二つ返事で共犯を引き受けた。
「ランニング行って来まっす!!!」
顧問にそう告げると、僕達は軽快に走り出した。グラウンドを出る瞬間に「少しでもタイムを縮めたい」という顔を作り、腕時計のストップウォッチを押して走り出す。ある程度走って顧問の姿が見えなくなったと思ったら、どちらかがピタリと足を止め、ダラダラと歩き出す。それを見てもう一人も足を止める。そして二人で顔を見合わせて笑い合うのだ。僕はいつもこの瞬間が大好きだった。走るのを止める距離が短ければ短い程、面白かった。
人に見つかりにくいと調査済みのいつものコンビニに到着し、入念に周囲を警戒しながらアンパンを購入し、食べた。やっぱり旨い。イケナイ味がして止められねぇ。今頃、ウゴモリは砂にまみれながら、汗をかいて練習をしているのだろう。そんな彼もまた幸せなのである。僕達もまた、アンパンを食べて幸せだ。相互に干渉し合わず、お互いの幸せを噛み締めようではないか。そんなことを思いながら、オクヤマと道を歩いていた。
その刹那。僕達は最大の失敗を犯した。今思えば、この日は夏の開放感も手伝い、だいぶ気が緩んでいたように思う。「あっ」と、オクヤマが声を上げた。完全にアンパンにしか目をやっていなかった僕は、顔をバッと見上げて青ざめた。
英語教師の河田である。時が止まる。一瞬、「張り倒せばいけるか?」という思考が流れた。ダメだ。完全に顔を見られた。アンパンも見られた。もう遅い。向こうも「あっ」という顔をしていた。
お互いに顔を見合わせたまま数秒が経ち、止まっていた時が流れ出した。目の横を汗が通過し、蝉の声が再びフェードインしてくる。「買い食いを見つかった。それも部活中に」。自らのヤバすぎる状況が言語化され、脳内を駆け巡る。「帰って自分の口で顧問の先生に報告しなさい」。英語教師河田の残酷すぎる制裁の言葉は、あまり頭に入ってこなかった。人生が終わったと思った。総体二日前の出来事だった。
オクヤマと僕は、重すぎる足どりでグラウンドへ向かった。「自分で顧問に報告しなければならない」。本当にこれは地獄のような制裁だった。説明が遅れたが、我が陸上部顧問の橋本は、生活指導部の主任も兼任しているガチムチ鬼軍曹である。黒光りした肌と、脂肪だか筋肉だかよく分からないガッシリとした体は、直視するのも恐ろしい程の存在感を放っていた。買い食いという罪は同じでも、そんじょそこらの部活の顧問への報告ではない。帰る道中に「このまま永遠にグラウンドに着かなければいい」と千回は思った。だが物理的な距離とは残酷なもので、僕達はグラウンドに到着してしまう。真っ直ぐに帰ったつもりだったが、腕時計のストップウォッチは陸上部失格クラスの不出来なタイムを記録していた。
ガッシリと腕を組み、グラウンドの端で仁王立ちしている橋本に向かっていく。普段、不良部員の僕達が橋本に自ら話しに行くことなんて、悪事以外にない。橋本も僕達の異様な気配に気づいていたと思うが、なぜかこちらを見なかった。
橋本の前に立つ。いつもよりデカく見えた。だが、こんなに近寄っているのに、こちらには一瞥もくれない。まぁ嫌われているのだろう。そりゃそうだ。もう停学や退学でも、自分の運命なんてどうにでもなれと、僕達は橋本にアンパンの一件を報告した。
橋本は眉一つ動かさなかった。真っ直ぐにグラウンドの遠くの方を見ている。あれ? もしかして、許されたのか? もしかして橋本、そんなに怒ってない? 淡い期待が僕の心を一瞬だけ暖めた。思い返せば今日は大事な総体二日前である。アンパンを食った不良部員に割いている時間なんてないのかもしれない。
橋本が口を開いた。
「集合ーーーー!!」
部員号令である。異様だった。いつもは部活の終わりの時間に発する号令だが、部活の時間はあと1時間は残されている。方々で練習していた部員達が一斉にこちらに集まって来る。集合はとても早かった(陸上部だから)。その中にはウゴモリの姿もあった。全身が砂と汗でドロドロになりながら顧問の言葉に忠実に全速力で集合してきた。目はキラキラと輝いていた。
「陸上部は今日から、停部です」
橋本の口から想定外の言葉が放たれた。停部? 陸上部が停部? この総体二日前の熱々の時期に、停部? 言葉が理解できなかった。一日限りの停部ということだろうか。そんな一日警察署長みたいな、プチイベントみたいな罰があるだろうか。
「……総体は、どうなるんでしょうか?」
誰かが、まさかと言う声色で質問した。僕は頭が真っ白になっていたので、誰の声かは認識できなかった。
「総体には、この陸上部は出場しません」
彼はハッキリとそう告げた。出場、しない? あまりにも突然の停部宣言&総体辞退の決断に、陸上部全員は完全に思考停止状態だった。数刻、静止した時が流れる。その刹那、
「本田がこんな風になっちゃったのはなぁ……本田だけの責任ではない!!!!!!」
橋本が突然、声を荒げた。初めて彼の怒りが表出した瞬間だった。橋本は案の定、ブチギレていた。ブチギレまくっていた。頭に血が上っちゃって、「連帯責任」という時代錯誤の罰を持ち出してきたのである。そして、その言葉の奥には僕への積年の怒りと諦めが詰まっているようにも聞こえた。もう全部、バレていたんだ。穴があったら入りたかった。
橋本の咆哮がエコーのように響き終わると、まるでクラシックのように、続いて誰かが啜り泣く声が聞こえてきた。ウゴモリだった。足についた砂を払う動作をしながら頭をかがめ、部員からは顔が見えないように泣いている。「総体に出られない」。彼にとってこれ以上の絶望はないだろう。入部当初から真面目に練習を積み重ね、三年生になってやっとレギュラーになれたのである。最後の総体でその全てをぶつけ、有終の美を飾る努力を死に物狂いでやってきた。それをこんな、万年マットの上で寝そべっていただけの男のアンパン一つで、ぶち壊しにされたのである。僕が殴り掛かられたとして、止める人間は一人もいなかっただろう。
その後の叱責や僕自身による部員へのアンパン事件の経緯説明はあまりよく覚えていない。とにかく、僕とオクヤマが起こしたアンパン事件は「陸上部を総体二日前に停部状態にする」という大惨事を引き起こしたのである。相互に干渉し合わない筈だった僕とウゴモリの幸せの関係は、僕が一方的に迷惑をかける形で崩れてしまった。
そんなウゴモリに謝りたい。ごめんよ。アンパン見つかっちゃって。あの後、なんだかんだで総体には出られたけど、練習の邪魔になったのは間違いないよ。ごめんね。
P.S.橋本先生へ。あの時はすみませんでした。とても反省しています。でも一つだけ聞きたいのですが、あの時、なんで僕だけが怒られたのでしょうか。オクヤマもアンパン、食ってました。
(文/わるい本田、編集/福アニー)
【Profile】
●わるい本田
1989年生まれ。YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」の出演と編集を担当。早稲田大学を三留し中退、その後ラジオの放送作家になるも放送事故を連発し退社し、今に至る。誰にも怒られない生き方を探して奔走中。