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文筆業のほか、宗派を超えた僧侶らが集まって作ったフリーペーパーの編集長も務めるなど、マルチに活躍する僧侶界の新星・稲田ズイキ氏。彼がJ-POPや漫画、アニメ、映画などのカルチャーに潜む「野生のブッダ」(=仏教を経由せず無意識で仏教の悟りの境地に達しているもの)を発見していく不定期連載コラムです。

稲田ズイキ「こんにちはブッダ」

星野源が「野生のブッダ」である理由。『Pop Virus』の歌詞こそ、彼の音楽のすべてを一言で言い表している

SNSでの感想
イラスト/ナカムラミサキ
目次
  • 星野源がとらえている「今」
  • 星野源は時空のはざまに歌を置く

 人生が一本の映画ならば、とよく思う。もし映画だったならば、あのときのあれは、なんだったのだろうか。今は起承転結の転なのか。それとも、まだ起すら始まっていないのか。想像する。

 イメージとしては、脳みそのなかに映画館がある。小さな私がスクリーンの前に着席していて、これまで見てきた思い出や現実の私が今見ている景色が、現在進行形で編集されて上映されているのだ。小さな私はポップコーンを片手に、あーだこーだと感想を言っているわけである。

 だとすれば、先ほどの現実のしょうもない私、すなわち、鍋の底にへばりついたうどんを箸でこそぎ取っていた私は、この映画においてどんな意味を持っていたのだろうか。カット、全カットか。それとも、伏線となって後に回収されるのか。

うどんの精です。あのとき、こそぎ取ってくださりありがとうございました

 こうなるかもしれない。人類と麺類の共生を描いたうどんファンタジーとして、これから私の人生が花開く可能性だってある。だから、私は一生懸命、鍋の底にへばりついたうどんをこそぎ取るし、しょうもない記憶も大切にしている。例えば、おじいちゃんが右利きなのに、サウスポーだったこととか。

 人生という壮大な時間の流れにおいて、全くもって意味がないと思われる小さな出来事は、常々起こる。そして、そうした出来事を小瓶に入れるなどして大切にとっておきな、と言ってくれたのが、私にとっての星野源であった。星野源は、小さな出来事を「くだらない」と名づけながら、その矮小(わいしょう)さをそのままに、だからこそ尊いものとして歌い続けてきたように思う。

《首筋の匂いがパンのよう すごいなあって讃えあったり
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる》
──『くだらないの中に』より

《明日なんて 誰も知らない
けど取り敢えず
今日まで続いてよかった
そしたら 作ろう今夜
珍しいって笑う
君が好きかわからぬ
このトマトパスタを》
──『そしたら』より

 星野源の歌っているものを、なんと言い表すことができるだろう。うまく言葉にすることができなかった。とにかく私は、そうした大して美しくもない記憶だったり、しょうもないがやけに脳裏にこびりつく出来事に出合うたびに、「星野源だ」と思うようにしていた。

 驚いたのは、『Pop Virus』を初めて聴いたときのことである。

《刻む 一拍の永遠を》
──『Pop Virus』より

 この詞を見て、「星野源だ」と思った。星野源の曲なので、星野源なのは当たり前なのだが、私が思う星野源の音楽のすべてを、星野源自らがたった一言で、言い表してくれていたのだ。「一拍の永遠」。この一言、この5文字に尽きる。星野源である。

 よくある言い方として、「一瞬が永遠になる」という表現がある。甲子園の優勝を決める最後の一投など、一瞬の出来事だったけど一生の思い出になるような瞬間を語る際に、よく使われるフレーズである。

 星野源が歌っている一瞬の永遠性は、こうした記憶の濃度の話におさまるものではない。思うに、星野源の音楽は人生をもはるかに超えた時空のはざまに自らを置き、「今」を歌っているのだ。

 僧侶の私の目からその姿に眼差しを向けたとき、浮かぶ言葉はブッダだった。それ以外の言葉は見つからない。星野源はまさしく野生のブッダなのであった。

『Pop Virus』の歌詞の全文はこちら

★この連載では第1回では『ばらばら』、第2回は『Crazy Crazy』、第3回は『Same Thing (feat. Superorganism)』を取り上げ、星野源を「野生のブッダ」として読み解いています。詳しくはそれぞれの連載記事をご覧ください。

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