星野源がとらえている「今」
星野源以外にも「今」を歌うアーティストはたくさんいる。しかし、星野源が少し異なっているのは、「二度と来ない今を謳歌(おうか)しよう」だとか「今を楽しめ」だとか、青春や衝動にこじつけて、今を単純に美化していないところにあると思う。
《時よ 今を乗せて
続くよ 訳もなく》
《時よ 僕ら乗せて
続いてく 意味もなく》
──『時よ』より
《ただ ただ 過ぎるさ僕等
未知を行く》
──『Continues』より
星野源が歌う時間は、ただ過ぎていくだけのものだ。前向きでも後ろ向きでもない、ただ流れていくだけの存在。刻々と過ぎていく時間に意味が与えられることもなければ、生きている私たちの今を手放しで賞賛したりはしない。根幹にあるのは、人間の意思や欲望ではどうにもならない世界観である。
こうした無常観をベースにしながら、星野源の楽曲では同時に、「つづく」ことの尊さが歌われているように思える。
《ふざけた生活はつづくさ》
──『喜劇』より
《「さようなら」も「また逢えた」も
出会った意味すらも
空に消える 夜に光る
もやした日々 河になるよ》
──『ある車掌』より
一つひとつは無意味だが、降り積もっていく。そこに意思があるわけでもないが、なぜだかつづいている。星野源が歌のなかで眼差しを向けているのは、一秒一秒の時間の粒そのものの美しさではなく、どんな一秒であっても次の一秒が来れば二秒となること、すなわち、時間のつながりの尊さにあると私は思う。
《無駄なことだと思いながらも それでもやるのよ
意味がないさと言われながらも それでも歌うの》
《日々は動き 今が生まれる》
──『日常』より
《輝き 無駄の中に
過ぎた時間に ともってる灯》
──『ひらめき』より
生きていると、笑ってしまうくらいにくだらない出来事が起きる。どうしようもないことも起こる。それでも、平等に時は降り積もる。くだらない今も、次第に過去となって古びていくが、その存在は確かに残っている。迎えるこの瞬間の今も、あの日のくだらない過去の上にある。たとえもう記憶になかったとしても、あの日がなければ、今もないのだ。
こうした連綿とつづく時の流れから、ふと何気ない瞬間を切り取ったとき、決して美しくもなかったその光景が、一つとして無駄ではなかったことに気づく。星野源の歌う「くだらなさ」とは、今この瞬間を切り取って現れた無意味が、長い目でとらえたとき、逆説的に今を支えるうえでなくてはならない不可欠な存在として映ることの発露なのではないかと、私は思う。
《剥げた色のふちを 今日も口に運ぼう
ほら 長い長い日々を 今日も繋ごう
少し割れた底に こびりついた過去まで
かき込むの よく噛んでね 同じ茶碗で》
──『茶碗』より
《飯を作ろう ひとり作ろう
風呂を磨いて ただ浸かろう
窓の隙間の 雲と光混ぜた後
昼食を済まそう》
──『うちで踊ろう(大晦日)』より
ここまでして星野源が「生活」を歌う理由も、なんとなく近づいて見えてくる。星野源にとって生活とは、「一日」よりも長く、そして「人生」よりかは時の粒を感じ取ることのできる、そんな時の連綿の象徴だからなのではないだろうか。
とにかく私は星野源を聴くたびに、いつもは思い出すこともない、くだらない記憶を思い出すのだ。