星野源は時空のはざまに歌を置く

 このように、星野源は大きな時間の流れとともに今を歌っているように思うが、刮目(かつもく)するべきは、星野源が見ている時間はたった一人分の一生ではないところだ。その視線は遠く果てしない。

《生まれる前の 思い出が
この心を いつも蹴り上げてるんだ》
──『Continues』より

《言葉に ならない Soul
名もなき 記憶に 見える 見える
道外れ 逸れた者
身体に 刻んだ 時を 越えて》
──『Soul』より

《何処の誰か知らないが
出会う前の君に捧ぐ》
《僕たちは骸を越えてきた
少しでも先へ
時空をすべて繋いだ》
──『Helllo Song』より

 私たちが経験できる時間よりはるかに遠くの時間を、星野源が見つめているのがわかる。自分が生まれる前の世界、もうすでに記憶にすらない存在、自分も知らない未来の誰かへ、星野源は眼差しを向けているのだ。さらに、《生まれ変わりがあるのなら 人は歌なんて歌わないさ》(『生まれ変わり』より)と歌っていることから、星野源は時空を超えるものとして歌をとらえているのだ。すごすぎる。

 以上、私が思うことをまとめるならば、星野源のとらえている時間の感覚とは、過去や未来といった悠久の時のなかに自らと音楽を置き、ちっぽけでくだらない瞬間であってもその瞬間が今へ、そしてこれからの過去や未来となることを受け止め、今を今のままに掬(すく)い取る姿勢だと言うことができるだろうか。

 それを一言で表すならば、そう、「一拍の永遠」もしくは「一粒の永遠」なのである。

 まるで矛盾したような言葉の組み合わせではあるが、無限の時空の連なりと目の前のトマトパスタを同時に見ることができる星野源からすれば、一拍も永遠も変わりのないものと映るのかもしれない。星野源にとってすれば、その一拍と永遠は切り離せないものであって、たとえ一拍を切り取っても、それは永遠のなかの一拍でしかないのだ。海を掌で掬ったとしてそれは海であるように。

《夏の中に手を伸ばして
海を掬うと
山の静寂 雨を落とせ
掌から》
──『海を掬う』

 この『Pop Virus』の世界観に、数少ない私のボキャブラリーから見つかるのは「一即多 多即一」という仏教の言葉である。これは「一瞬即永遠 永遠即一瞬」という言葉で語られることもある。「一瞬は永遠であり、永遠は一瞬」ということだ。

「全は一、一は全」と言い換えることもできる。仏教がとらえる世界像は、一部と全部が単なる大きい小さいの包含関係にあるのではなく、同時に存在しているのだ。一がなければ全もなく、全がなければ一もない。だからこそ、仏教の耳からしても、一拍もまた永遠として聞こえるのである。

 この連載では、これまで好き勝手に星野源を野生のブッダとして評してきたのだけど、だんだんとそう言いたくなる私の気持ちが伝わってきただろうか。いや、そんなことは伝わらなくてもいいのだ、結局。私が言いたいことは、「星野源すげぇ」の一言に尽きるのだから。

 今日もまた、野生のブッダとの源(禅)問答をつづける。ランダム再生で流れてきた『Pop Virus』は沁みる。

(文/稲田ズイキ)

《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、広告代理店に入社するも1年で退職し、文筆家・編集者として独立する。アーティストたかくらかずきとの共同プロジェクト「浄土開発機構」など、煩悩をテーマに多様な企画を立ち上げる。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)