沖縄本島のいちばん南に位置する糸満(いとまん)市は、海人(ウミンチュ=漁師)の町として知られ、農業も盛んで自然豊かな地域。また、沖縄戦の終戦地で、平和祈念公園やひめゆりの塔をはじめ、戦没者の鎮魂と恒久平和を祈る施設も多くあります。
そんな糸満市でハルサー(畑を耕す人)になり、インゲンやトマトなどを栽培している中川陽介さんは東京出身。2009年に東京から住まいを移し、戦争の悲惨さと平和の尊さを継承する「糸満市平和ガイド」としても活動しています。
そして'20年から、糸満を舞台にした映画も制作。実は中川さん、数々の作品を世に送り出してきた映画監督なのです。世界各地の映画祭に出席し、誰もが知る有名俳優を主演に迎えて撮影するなど、華やかな実績を残してきました。その中川さんが、なぜ糸満市で農業を!? インタビューを通して、半生に触れてみます。
“アジア色”を感じる那覇の街に魅了されて……
東京で生まれ育った中川さんは映画が好きで、大学生のころ「映画にかかわる仕事がしたい」という思いが生まれたと言います。当時の映画会社は新卒者の就職チャンスがなかったため、1984年、出版社に入社。その出版社のグループ企業が映画事業に参入していたため、映画に近づけるのでは、とイメージしたそう。
出版社の社員として若者向けの雑誌作りを担当する中、ついにチャンス到来。社内で行われた映画の脚本コンテストで見事、入賞します。
「初めて書いた脚本でした。いい作品だとほめられましたが、審査員に“映画化するには5億円かかる”と言われ実現しませんでした。終戦直後のプロ野球を題材にした話で、取材から着想した物語だったんですよ」
笑顔で振り返る中川さんから、映画の世界が近づいてきた喜びが伝わってきました。
出版社で10年働いたところでグループ企業の業績は不振になり、一方で、映画にかかわりたいという情熱は増すばかり。中川さんは早期退職を決め、自ら会社を立ち上げました。
「映画にかかわる仕事なら何でもやりました。岩井俊二監督の『スワロウテイル』や吉田健監督の『喜多郎の十五少女漂流記』などの現場を手伝いながら、映画の脚本を書き始めました。沖縄で自主制作映画を撮ろうと思ったのはそのころです。
那覇の街の風景にアジアの文化を感じ、それが魅力的に映ったんですよね。ネクタイを締めているサラリーマンが屋台で麺を食うような、バンコクや上海などで見かけるアジアンチックな日常が、那覇にはあったんです。仕事場のそばで飯を食い、住まいも近い。歩くだけで人の営みが匂ってくるような風景が好きになりました。10代から沖縄に来ていましたが、リゾートの旅から、だんだん感覚が変わっていったんです」
映画に当てはめると、「'80年代後半から'90年代にかけて発表された中国のチャン・イーモウ監督やチェン・カイコー監督、そして香港のウォン・カーウァイ監督らの作品に影響を受けた」と言います。世界中で注目を浴びた彼らの作品はアジア色が濃く、街の風景や人の営みを映し出していたのです。
'61年生まれで、自らを“アメリカン・ニューシネマ世代”と言い、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノらの主演作に夢中になったという中川さん。娯楽色が強い作風になっていく風潮に「アメリカ映画らしさが失われてしまった」と感じたそうで、そのころから中華系をはじめ、アジア映画に惹(ひ)かれていったのですね。