始まった12年間の闘病生活「言葉では言い尽くせないほど家族に助けられた」

 子どものころから、父に「跡を継いでほしい」と言われたことはなかった。大学進学を考えていた高校3年生の秋、まぶたが腫(は)れる日が続いた。病院に行くと、ネフローゼ症候群と診断された。最初は2か月ほどで治る、いや、卒業式にも出られないとなって最終的には、なんと12年間の闘病生活を送った。

 療養生活中、彼は「自分自身と徹底的に向き合った」と言う。先の見えない療養に焦ることもあったが、自棄(やけ)になったことはない。

「最初は長くても数か月だと思っていたんです。ステロイドを大量投与して、そこから少しずつ薬を減らしていくのですが、とにかく再発しやすかった。1年間は入院生活でした。一時期は歩行困難にもなったし、寝たきり寸前にもなった。そんな中、両親は忙しいのに毎日のように、千葉県の病院まで見舞いに来てくれました。姉は家のことをするために仕事を辞めて……。家族みんなが僕のために協力してくれていたから、強い気持ちで闘えました

 退院後は自宅で服薬しながらおとなしくしているしかない。無理をすると再発して、また一からの治療になってしまうのがわかっているからだ。時間はあっても、未来への明るい希望は抱けなかった。

「好きな絵をたくさん描いたり。パソコンを買ってもらったので、フォトレタッチなどを独学で勉強しましたね。父が、“お金のことは何も心配しないでいいから、焦らずにゆっくりと療養しなさい”と言ってくれたのが心強かった。そんな自宅療養中に、友人が難治性の病気になったんです。希少な病気だから研究も進まない。患者会を作って研究開発を促したいという話を聞いて、自分にできる範囲で活動のお手伝いをしました。ともに活動した仲間はみな、この世を去りましたが、そのときの経験もまた、自分の価値観を大きく成長させてくれました。

 20代後半から少しずつ私自身の病気と折り合いがつくようになってきたこともあって、30歳を過ぎてから、立教大学大学院で社会学を学ぶことになったんです。研究テーマは友人とともに活動した患者会について。言葉では言い尽くせないほど家族に助けられたので、私も人のためにできることをしたいと思うようになったんです

小猫さんは、「とにかく家族の支えがあったからここまで来られたんです」と繰り返した  撮影/山田智絵

 30歳のころ、ようやく寛解。2009年、32歳で立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科に入学すると同時に、そのころ四代目猫八を襲名した父に入門した。

「父からは“芸人にならなくてもいいから、ウグイスだけは鳴けるようになってほしい”とよく言われました。それが江戸家が繋がっている証(あかし)だと感じていたんでしょう。実は病気療養中に、誰もいない家の中でひそかに練習していました(笑)」

 小猫さん自身は、継ぎたくないと思ったことはない。ただ、病気のこともあり「やっていけるかどうか」不安ではあったようだ。父の襲名の少し前、ふたりで一緒にバードウォッチングに行ったことがある。

「そこで父にウグイスを聞いてもらったんです。父はちょっと感心した様子で、“今の鳴き方でもいいけど、ケキョのところをもうちょっとこうしたら”とアドバイスしてくれたんです。それでやってみたら、拙いなりに調整できた。“すぐに対応できるのは、ちゃんと修業している証拠”と喜んでくれました」

 その後、父は独演会にかぎり自分の舞台に、彼を一緒に出すようになった。舞台で父と並んで、身体に「芸」を刷り込んでいった。「父と一緒に舞台に出ていた1年半は貴重な時間だった」と彼は言う。