劇団を主宰し演劇活動に明け暮れる日々、アトリエも構えて演劇ブームを牽引

──京大では、劇団に入団したのですよね。

「高校時代も演劇をやっていましたが、役者をするよりも、物を作ることのほうが好きだったんです。本当は映画がやりたかったけれど、お金もかかりますし。京大に入学したとき、学内に『劇団卒塔婆小町』(現・劇団そとばこまち)というサークルがあったんです。その2期生になりました。意外と体育会系で、日ごろから腹筋をしたり、ランニングしたり。大文字山(京都府の山)にも登りましたね

──本格的に演劇を志したきっかけはあったのですか?

「大島渚監督(代表作は映画『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』など。京大在学中に劇団『創造座』を創設・主宰し、演劇活動も行っていた)が、父と大学の同窓で親しい仲だったこともあり、当時の話は聞いていました。その影響もあったのかもしれませんね。監督が主宰していた『創造座』という劇団の名前を気に入ったので、自分が継がせてもらえないかなと思って、手紙を書いたこともあります。そうしたら、“自分の劇団をやったらいいんじゃないか”っていう返事をいただいて、これまで以上に演劇に本腰を入れ始めました

──実際に劇団を主宰したのですか?

「実は、われわれの年代と先輩達が、劇団の方針で対立してしまった。それで、先輩達が嫌気がさしてみんな退団してしまったんです。そこから新生『劇団卒塔婆小町』として再スタートし、その1年後から、2代目の座長を務めました。もともと役者をやろうとしていたわけではなかったので、どちらかと言えば、プロデューサーや経営者みたいな立場でしたね」

「劇団のほうは順調でしたが、この年の取得単位はゼロだったんですよね〜(笑)。大学中退も本気で考えましたよ」と辰巳さん 撮影/齋藤周造

──座長になってからは、どのような活動をしていましたか?

4回生のときに、京都・烏丸御池に100人ほど収容できるアトリエ(劇場)を構えたんです。学生劇団として自分たちのアトリエを持ったのは、『劇団そとばこばち』が初めてだと思います。京都中の不動産をみんなで手分けして回って物件を決めて、寄付や劇団員からの団費で運営していました。内装や電気工事も全部、自分たちで手がけたんですよ。天井を落として、アスベストまみれになってね(笑)。劇場があれば、いつでも稽古もできるし泊まることもできる。学生たちが劇場を持つなんて、東京にいたらできなかったと思います。

 自分たちにとっては、アトリエで毎月行う新作公演が大切な活動でした。出演料も1ステージあたり1000円ほど出して、本格的にやっていたつもりです。劇場が空いているときには、一般に貸し出したり、ダンス教室や映画の上映会を開いたりしていました」

──'80年代は『小劇場ブーム』と呼ばれるほど演劇界が盛り上がったそうですが、同世代の劇団との交流はありましたか?

年代的には、野田さん(劇作家の野田秀樹・元『夢の遊眠社』主宰)が先輩で、鴻上尚史さん(元『第三舞台』主宰)が同い年。夢の遊眠社が出てきたとき、うちは『西の遊眠社』と言われて比べられたりしました。向こうが東大で、うちは京大でしたからね。関西方面では大阪芸大のメンバーが旗揚げした『劇団☆新感線』が出てきたり、同志社大学の『第三劇場』を母体にして、マキノノゾミさん主宰の『劇団M.O.P』が誕生しました。こんな感じで、'80年代前半はまさに関西で学生演劇ブームがきていたんですよそのブームの中心にいたのが、『劇団そとばこまち』だったんです