『ロマンス』『あさが来た』などNHK朝ドラへの出演をはじめ、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)の回答者や『くいしん坊!万才』(フジテレビ系)のリポーター役で'80年代以降のお茶の間を席巻した、俳優の辰巳琢郎さん(64)。
京都大学文学部を卒業している辰巳さんは、クイズ番組でもその知能・知識を生かし、幾度となく名回答を繰り出しています。インタビュー第2弾では、大学卒業後の朝ドラデビュー、クイズ番組へレギュラー出演など、ご自身のターニングポイントとなる出来事を中心に振り返っていただきました。
(京大卒業まで演劇に明け暮れた日々についてはインタビュー第1弾で詳しく伺っています→辰巳琢郎、京大現役合格のカギは「読書と数学」だった!? 3留するほどのめり込んだ『劇団そとばこまち』での日々)
朝ドラを機に本格的に俳優業へ。『連想ゲーム』への出演でバラエティにも進出
──京大在学時に主宰し、関西の'80年代演劇ブームを牽引するほどの存在になった『劇団そとばこまち』を経て、テレビなどで活躍するようになるまでには、どのような経緯があったのですか。
「大学卒業を控える中で、劇団の中心として約7年間やってきて、そろそろ違うことや映像作品にも挑戦したいと思っていました。そんなとき、新聞の片隅にNHK朝ドラの主役オーディション開催の告知が載っているのを見つけて、受けに行ったんです。『ロマンス』('84年4月から9月まで放送)という男女4人の群像劇で、僕は男性出演者の中で2番手の役柄をいただけました。東京制作だったので、撮影期間のあいだは上京していて、卒業式も撮影で出席できませんでした」
──劇団の活動は、東京進出後も続けられたのですか?
「はい。でも、いずれは劇団に戻るつもりだったものの、忙しくて戻れなくなってしまったんです。『ロマンス』放送後もしばらく劇団のプロデューサー業を続けていたのですが、劇団の体制を整え、次の座長を後輩の生瀬勝久君に任せてから、完全に退団しました。当時は劇団員が京大の在学生中心だったので、みんな就職を機に辞めてしまって、入れ替わりもそこそこありましたね。役者を続けるより、一流企業やテレビ局などに就職するメンバーが多かったんです。残念ながら(笑)」
──朝ドラに出演して、俳優業を本格的にやっていこうという決意が芽ばえましたか?
「劇団時代から、リーダーとしてPRのために『11PM』('65年から'90年まで放送された日本テレビ系の深夜情報番組)など、いろいろな番組に出たりしていました。どちらかというと外交というか、企画宣伝寄りの立場だったので、自分のことを役者だと思ったことはあまりなかったんです。でも、朝ドラで全国デビューしてからは、“俳優をもっとちゃんとやっていかなければ”と思いましたね」
──俳優業から、クイズ番組にも出演されるようになったきっかけは何でしたか?
「朝ドラのあとも、もう少しまとまった仕事をしてから劇団に戻ったほうがいいかなと思って、東京の生活を続けることにしました。いくつかドラマに出演しましたが、NHKに出たからって、ずっと仕事が保障されているわけではない。飽きっぽい性格なので、また別のことをしようかなと思ったりもしつつ……。そんなときに、『連想ゲーム』('69年から'91年までNHKで放送されていたクイズ番組)のレギュラー解答者に抜てきされたんです。たぶん、ドラマ以外の初レギュラーだったかな。子どものころから、この番組や『アップダウンクイズ』(TBS系)、『クイズグランプリ』(フジテレビ系)などをずっと見ていたので、ファンだったクイズ番組に出られたのは素直にうれしかったですね!」
──そこから、さまざまなバラエティ番組への出演につながったのでしょうか。
「若者向けの情報番組の司会やデビュー以来初の舞台出演などを経て、'91年に『くいしん坊!万才』('74年から放送されているミニ料理番組)のリポーターになったんです。『くいしん坊!万才』が始まって1年半くらいたったころ、『たけし・逸見の平成教育委員会』にも出演するようになりました」
──仕事の幅が一気に広がっていったのですね。『くいしん坊!万才』は帯番組ですが、どのようなスケジュールで撮影されていたのですか?
「毎月6日ほど地方に行き、まとめてロケをしていました。『くいしん坊』で全国を回りつつ、ドラマや『平成教育委員会』に出るようになり、ようやく“仕事が忙しくなってきたなあ”という感じでしたね」