嫌な予感がしていた。

 彼女の誕生日の二日前から僕の体はやけに熱っぽかった。煙草をいくら吸っても不味く、目を瞑ると焦点が定まらず視界がグルグルとしていた。

 彼女の誕生日は刻一刻と迫っていた。

 誕生日などの記念日を異常に重視する子で、なおかつ当日には何故かヒステリーを起こす子だった。バレンタインにもらったチョコは毎回必ず粉々になっていたし、もらった誕生日プレゼントの類はその日に割られ、貰った手紙は読む前に破られた。「特別な日」という意識が彼女のバイオリズムを乱す要因になっていたのは間違いがなかった。

 そんな乱痴気確定日に僕の体調不良が加わったら大変な事になってしまう。それは分かっていた。数日前から体調だけには気をつけて万全の体勢を取っていた筈が、どうにも体が火照っている。自分を誤魔化すために熱を測らずにいたが、買ってきたポカリを額に当ててみると、冷んやりと気持ちが良かった。

 そうこうしている内に誕生日当日になってしまった。家の玄関がガチャッと開き、彼女が向こうに立っているのがぼんやりと見えた。僕の体調はいよいよ最悪で、その時には立つ事すら苦しい状態だった。

 彼女が家に来た時には玄関まで迎えに行くのが通例であり、それが愛の伝え方の一つでもあった訳だが、この時ばかりは「そんなこともできないくらいの異常事態です」アピールも兼ねて、ベッドの上から手を振るだけに留めた。少しばかり過剰に力を抜き、病人感を演出してみたりもした。彼女の最後の良心に訴えかけてみたのである。

 ベッドの側に来た彼女が口にした言葉は、

「大丈夫〜?」

 だった。予想に反して、優しい対応だった。

 お土産に買っていった苺味のご当地サクマドロップスを「何このゴミ?」と投げ捨てた彼女が、クリスマスにインフルエンザに罹ってしまった僕の目の前で壁にシャンパンをフルスイングした彼女が、この対応である。まぁ言うたら病気の恋人にかける言葉としては鉄板の、安全度ピカイチの、裏を返せば至極ノーマルな言葉ではあるのだが、この彼女に至ってはそんな凡庸な言葉にこそ、逆説的に暴虐の匂いが感じ取られた。

 だがこの時の僕は弱っていた。誰かに頼りたいという心の弱さと、怒ると思っていた彼女が普通だったという解放感がフワアと錠剤の様に溶け出し、気を緩ませていった。

 すっかり警戒態勢が解かれた僕は、いかに自分が不幸であったかをペラペラと彼女に喋ってしまった。付き合う前はお互いに駆け引きをしていた男女が、付き合った途端に「あの時ぶっちゃけこう思っていた」「正直誘われて嬉しかった」等と身も蓋もない答え合わせ大会を開催したりするが、そのくらいのテンションで”ぶっちゃけ大変でしたトーク”をしてしまったのである。

「でさ、なんで私の誕生日に風邪ひいてんの?」

 嬉しそうに話していた僕の顔は、一瞬で真顔になった。

 なんで私の誕生日に風邪ひいてんの。風邪をひくのに理由などない。ウイルスが体内に侵入したからである。だが、彼女が問うのはそんな問題ではないのだろう。風邪をひくまでの過程の話だろうか? それともこの無様な結果に対してだろうか?

 彼女の眉間に寄った皺は小さな種火に過ぎなかった。焦った僕から次々に出る薄っぺらい言い訳が燃料となり、火はどんどんと大きくなっていく。気がつくと轟々と燃え盛る火炎となった彼女の怒りは、既に僕の四方を囲んでいた。もうどこにも逃げ場はなかった。

「どう落とし前つけてくれんだよ!」

 もう制御不能なくらいにブチギレた彼女から拳が飛んできた。僕は甘んじて顔面で受けた。

 そして僕は、「人は高熱を出した時にボコボコに殴られるとどうなるのか」を初めて知った。

 口が動かなくなるのである。

 それは、精神的なものでもなく何かの比喩でもない。文字通り口が動かなくなるのだ。厳密に言うと、唇周辺の筋肉が萎縮し緊張状態でガチガチになる。そして物理的に口を開くことができなくなり、言葉を発せなくなるのである。

「なんで今日熱出してんだよ!!」

「なんで私がこんな思いしなきゃいけねぇんだよ!」

 理不尽と言ってもいい言葉の暴力が飛んでくる。言い返したい罵詈雑言もたくさんあったが、どうやっても口が動かない。どんなに頑張って口を開こうとしても、顔の頬骨が上がるばかりで唇がついてこない。丸く唇をすぼめる事が精一杯であった。

「アナルみたいな口してんじゃねぇよ!」

 わかる。自分の口の形が完全にアナルの形をしている事はわかっていた。だが、そんな事は今は関係ない。高熱の中ボコボコに殴られている事が単純にキツかった。

「プレゼントはねぇのかよ!」

 実はプレゼントはあるのだ。自分が今日高熱を出す事をほんのりと予測していた僕は、事前に誕生日プレゼントを用意して隠していた。サプライズで出そうと思っていたのだが、まさか自分の唇がアナルみたいになって動かなくなるとは思っていなかった。

 僕は必死に彼女に伝えようとした。プレゼントは、ある。あるのだ。そこのバッグの中にある。驚かせたかったのだ。だが今出したら全てが台無しになる。サプライズだから「サプラーイズ!」くらい言いたい。だが唇は一向に動かない。アナル唇はウ行しか発音できない。

 止まらない殴打、止まぬ叱責。脂汗が出てきて、いよいよ異常事態だった。もうここまで来たらサプライズも糞もない。僕はもうプレゼントを出してしまう事にした。這いつくばりながら自分のバッグへ辿り着きプレゼントを渡す。少しでも彼女の怒りが収まる事を祈っていた。

「なーんだ! プレゼントあるんじゃん!」

 突然笑顔になる彼女。

 殴打の手は止まり、黙々とプレゼントの箱を剥いている。

 口をすぼめながら床に這いつくばる僕。

 フローリングの冷んやりとした感触が、頬に当たって少し気持ちが良かった。

 

 そんな彼女へ謝りたい。ごめんよ、プレゼントをさっさと出さなくて。ちなみに後日病院に行ったらインフルエンザでした。三十九度ありました。

(文/わるい本田、編集/福アニー)

【Profile】
●わるい本田
1989年生まれ。YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」の出演と編集を担当。早稲田大学を三留し中退、その後ラジオの放送作家になるも放送事故を連発し退社し、今に至る。誰にも怒られない生き方を探して奔走中。