「劇団☆新感線」から背中を押してくれたのは
3学年下の古田新太は、渡辺いっけいが勧誘した。初期の『劇団☆新感線』はオリジナルではなく、つかこうへい(劇作家、演出家、小説家/2010年没)の作品をかたっぱしから上演して人気を博していたが、活躍の場はまだ関西ローカルに限られていた。
「僕はやっぱり東京に行きたかったんですね。愛知県の人間はどうしても大阪よりも東京に目が向く。静岡県(浜松市)出身の筧利夫さんもそう。日芸を落ちて大阪芸大に流れて、新感線で同期になった。まったく僕と一緒なんです。
しかも今では考えられないんですけど、当時いのうえさんは東京をこわがっていて “もう俺は東京行かないで大阪でやる。東京に行きたいんだったら、うちをやめて行きなさい” って僕らの前で言いましたから」
卒業後の身の置きどころとして、東京の劇団のオーディションを受けた。それが早稲田大学を拠点に活動していた『第三舞台』(主宰・鴻上尚史)だった。
「いのうえさんが推薦してくれて “話を通しておくから受けてこいよ” って早稲田に行ったら、最初は200人ぐらいいたんですよ。それがいろいろ(実技を)やって戻ってきて、もう1回来てくれって言われて筧さんと行ったら3人しかいなかった。
で、東京のカプセルホテルに2人で泊まって明日は帰るだけってなったとき、“もう1人いたけどさ、正直お前か俺かどっちか受かるぜ” “どうする? 受かったら行く?” “どうなんだろうね。でも、いのうえさんが言うのは間違いないんじゃないの。ま、人気があるみたいだし” って2人で話したのは覚えてます。で、筧さんが受かって “俺、行くわ” って決めたんです」
渡辺いっけいも上京。1985年、アングラ演劇で知られる「状況劇場」(主宰・唐十郎)に入団するも、2年ちょっとで解散の憂き目にあう。アルバイト生活で食いつなぎながら、劇団の枠をこえたプロデュース公演を渡り歩く。
「第三舞台の劇団員の人たちともなんとなく仲良くなって飲み会に呼ばれたり。当時、レンタルビデオ屋でバイトしてて、エッチなビデオとかも扱ってる店だったんで、劇団の人にある女優さんのからみのところだけ編集して持ってきてくれとリクエストされたり(笑)。
今もテレビとかで活躍している勝村政信(第三舞台の看板俳優のひとり)とも、僕が26歳のときに初めて共演しました。『大恋愛』っていうプロデュース公演(作・演出は木野花)なんですけど、それに出られたのは筧さんのおかげです。
所属がない僕を心配して、第三舞台に “いっけいが状況(劇場)をやめて宙ぶらりんなんで、呼べないっすかね” “渡辺いっけいだったら、みんな(気心が知れて)やりやすいと思うんで” ってプレゼンしてくれたんです」