出会い

 2013年のある夏の日、シアトルでの生活にも慣れ始めた私は、学校からバスに乗って家へ向かっていた。

 平日の16時ということもあって、ほとんどの停留所を通過し、街の大通りで半分ほどの乗客が降りてからは、車内は閑散としていた。

 アメリカ規格とはいえ、1人掛けの椅子は私の体には少し窮屈で、バスが空いているのをいいことに後方の2人掛けの座席を占領しながら、私はウトウトしていた。

 気づくと、隣の席に1人の白人の男が座っていた。

「狭苦しい思いをさせてすまんな」と思いながら席を詰めて、ふと男に目をやる。

 なんと彼は日本代表のWBCのユニフォームを着ているではないか。

 野球が大好きな私は興奮で目が覚め、その男に話しかけた。

 ジョーという名の彼は日本の野球が大好きで、当時シアトル・マリナーズでプレーしていた岩隈投手をはじめ、ダルビッシュ投手や川崎選手にも注目しているとのことだ。

 野球の話で盛り上がっていると、彼は「次の停留所で降りてうちでサッポロを飲もう」と言い出した。

 特に予定もなかった私は、その誘いに乗り、彼の家へお邪魔することにした。

彼が日本を好きな理由

 ジョーの家に着いて心底驚いた。

 壁一面に巨大な日本地図が貼られ、その中央には日本国旗が掲げられていた。

 彼は冷蔵庫から取り出したサッポロビールを差し出し、「当然だろう」というような顔をしながら、驚いている私の肩をグーでポンと叩いた。

「お前は日本のどこから来たんだ?」

 私は巨大な地図の「Shinjuku」と書いてある辺りを指差した。

 彼はニンマリとした顔で頷き、こう話し始めた。

「見ての通り、俺は大の日本好きだ。日本の野球も興味がある。でもバスの中だから本当のことを言えなかった。俺が本当に好きなのは、日本の『女』だ」

 ジョーには、日本人の彼女が3人いるらしい。

 そのうちの1人は最近日本に帰ってしまい、その子が住んでいる場所が新宿だそうだ。

「いつか新宿で3人でパーティーしよう。お前の女も連れて来いよ」

 満面の笑みでそう言いながら、彼は私の肩をグーでポンと叩いた。

 その日は結局サッポロビールを3本ずつ空けて、家に帰った。

 それ以降、毎週のようにジョーと日本料理を食べに出かけるようになった。

 さすがに日本好きなだけあって、シアトルの色々な日本料理の店を知っている。

 シアトルに慣れた一方で日本食が恋しくなっていた私にとっては非常に嬉しかったし、ダウンタウンのホテルで支配人をやっているという彼がいつも奢ってくれるのも正直かなり助かった。

「日本にはもっといい女がいるか?」

 従業員の日系人の女性に目線をやりながら、彼は決まってそう言った。

「お前は本当に女のことしか考えてないんだな」。そう言葉を返すと、彼は必ずニヤニヤしながら私の肩をグーでポンと叩いた。

宅飲みと提案

 出会ってから数か月が過ぎたある夜、ジョーから「たまにはお前の家に行ってみたい」と連絡が来た。

「狭い部屋だけど、それでもよければ」と返事をして、ビールを買って彼が来るのを待った。

 思い返せば、バスで出会った日に彼の家へ行ってからは、レストランや、日本料理屋にしか一緒に行ったことがなかった。

 とはいえ、本当にベッドしかないような小さな散らかった部屋に呼ぶのもなんだか申し訳ない。

 そんなことを考えているうちに、ジョーは到着した。

 彼はいつにも増して上機嫌で、すごい速さでビールを飲み干していった。

 オブ・モントリオールの新譜を流していると、

「こんな軟弱な音楽を聴くな」と勝手にブラック・サバスのCDに差し替え、笑いながら私の肩をグーでポンと叩いた。

 彼は「ちょっと弾いてみろ」とギターを指差し、私の隣に腰掛けた。

 私が適当にギターを弾きながら歌っていると、「いいじゃねえか」と言いながら、やはり彼は私の肩をグーでポンと強めに叩いた。

 そして、その手を広げ、私の首筋をそっと撫でた。

 気のせいに違いない。

 彼のパンチを今まで何度受けてきたかわからないが、一度くらい強さや場所を間違えることだってあるだろう。

 私は必死にそう思い込むことに決めた。

 だが、その生々しい感触はずっと首にこびり付いていた。

「おい、お前全然飲んでないじゃないか。もっと飲め!」

 ジョーは瓶を差し出し、また私の隣に腰掛けた。

 嫌な感触を忘れたくて、一気に飲み干してやろうと、勢いよくビールを流し込む。

「いい飲みっぷりじゃねえか」

 ジョーは挑発するように目を細めて私を見つめながら、短パンから露出していた私の太ももを撫で回し始めた。

「……くすぐったいからやめてくれない?」

 困惑しながら引きつった顔で手をはたくと、ジョーは強引に、短パンの裾からボクサーパンツの中へと手を伸ばしてきた。

 私はジョーの手を思い切り掴み、パンツから引っ張り出して壁に押し付けた。

 すると、ジョーは静かに話を切り出した。

「全部ウソだったんだ」

 散らかった部屋に、どんよりと重い空気が流れる。

「本当は日本人の彼女なんていない」

 私が手を離すと、ジョーは目線を落としながら続けて話した。

「日本の男の子がとにかく好きなんだ。だから頼む。一晩だけでいい」

 そして彼は、私の目を力強く見つめて言い放った。

「800ドルで買わせてくれ」

「世界は広い」と私は思った。

 こんな自分との一晩を、この男は10万円で買おうとしているのだ。

 もしかしたら、私には知らない世界のプレミア的な要素をたまたま自分が持ち合わせているのかもしれない。

 だとしても理解のできない金額だった。

 すると、畳みかけるかのように、

「いや、1000ドルまで出せる」

 とジョーは力強く言った。

 競売のように提示される額に圧倒されていたが、「そういう問題ではない」とはっきり伝えた。

「俺の肌はスベスベだぞ!」

 そういう問題ではもっとない。

 説得を諦めたジョーは、「とにかく俺は今夜ここで寝るんだ!」とベッドで岩のように固まってしまった。

 無理やり体を起こそうとしてもビクともしない。

 いかに自分の肌が滑らかであるかを叫ぶように力説している、性に取り憑かれた男の前で、ただ私は立ち尽くすしかなかった。

 これではらちが明かない……。

 途方に暮れていたその時、ドアを激しくノックする音が聞こえた。

「なんで今日ずっと部屋にいるの? 外で飲もうよ!」

 そのルームメイトの声が、試合終了の合図だった。

 事情を説明すると、筋肉バキバキのルームメイトがジョーを担ぎ上げ、建物の外へと投げるように追い出した。

 ルームメイトに感謝を伝え、一連の出来事を話しながら酒を飲み始めた時、1件のショートメールが届いた。

「俺の肌は、例えるならジャパニーズ豆腐だ。滑らかなだけじゃなくて、プルプルだぞ。本当にいいのか?」

 私はそっとジョーを連絡先から削除し、彼と会うことは二度となかった。

 それから数か月が経過し、日本人コミュニティのパーティーに参加した際、ジョーは日本から来た留学生の間ではかなりの有名人だと知った。

 そのパーティーの参加者だけでも、私以外に3人の男が声を掛けられたという。

 だが、名前はバラバラに名乗っていた。職業も違う。

 唯一の共通点は、WBCの日本代表のユニフォームを身にまとい、バスの中で近づいてくる、ということ。

 その中でも、出会ったその足で彼の家までヒョコヒョコついて行ったのは私だけだった。

 自分の軽率さを反省しつつ、「WBCのユニフォームには気をつけろ」とこれから海外に行く人には伝えたい。

 そして、もしもいつかジョーに再会したら、「肌の滑らかさ」で心変わりした男に今まで出会ったことがあるのかを聞きたいと思う。

(文/池田ビッグベイビー、編集/福アニー)

【Profile】
●池田ビッグベイビー
1991年生まれ、YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」のメンバー。185cmという巨体を武器に大学卒業後はネズミ駆除の仕事に就くも、YouTuberへ転身。「池田ショセフ」名義で音楽活動も行う。