4月にシアトルから友達が遊びに来る。

 シアトルに留学していたのはぴったり10年も前のことなので、これまでにもそんなことが何回かあってもよさそうなものだが、私にとっては初めてのことだ。

 それはきっと、私が住んでいた環境によるものが大きいと思う。

 ホームステイ先が合わず、夜逃げのように家を飛び出してから、私はとにかく家賃が安い家を探していた。

 結局見つかったのが、ワシントン大学というシアトルで最も有名な大学のすぐ近くの建物だった。

 各々ベッドは用意されるがそれ以外は全部共用というのも、友達ができてよさそうだなと思い、見学もせずに入居を申し込んだ。

 いざ引っ越し当日になりワシントン大学の近くに到着すると、周りはフラタニティやソロリティと言われる、日本でいうところのパリピサークル的な団体のプール付きの豪華な建物が並んでいた。

 その中で一軒、ジメッとした雰囲気の塗装の剥がれた家が建っていた。すぐにここが自分がこれから生活する場所だとわかった。

 玄関の前に男が立っており、軽く挨拶を済ませて中に入ろうとすると、

「上モノのLSDが手に入ったから買わないか?」と声をかけられる。

 彼は前歯の抜けた口の中を見せつけるようにゲラゲラと一人で笑い、「他にもいいモノが色々あるぜ」と肩に手を回してきた。

 関わりたくないなと思ったこの男こそが、来月日本に来るクリスという友達だ。

 彼はドラッグのプッシャーで、刑務所から出てきたばかりだった。

 私たちが暮らしていたその家は、その商売にはうってつけの場所だった。周りに住む大学生は週末にパーティーの前になるとクリスに会いにうちに集まるのがいつものことになっていた。

 単純に安い家賃で済まそうと思って見つけた家だったが、アメリカでは安い家賃になるとはそういうことなんだなと住み始めてからすぐに理解した。

 他のルームメイトたちも、長く路上で生活していた人や、疾患を抱えている人など、ほとんどの人間が何かしらの事情を抱えていた。

 気を抜いていると深い闇に引っ張られそうになる。常に「死」が近い場所にあり、辛い経験もした。

 だからこそ、みんなで助け合って暮らそうという独特な空気があった。

 とても薄っぺらい言葉になってしまうが、毎日ルームメイトからの愛を感じながら生活を送っていた。

 私が学校から帰って来ると、クリスはソファーでタバコを吸いながらニコリと笑い、「ショウ(私の呼び名)が帰ってきたぞ」とみんなを呼び出し冷蔵庫からビールを取り出す。

 あの頃の、それから朝までの時間が、私のこれまでの人生を振り返っても最も楽しくて幸せなひとときだった。時々喧嘩が起きたりもしたが、みんなと毎日同じような話をしてゲラゲラ笑って暮らしていた。

 20歳ほど年齢が離れていたクリスは、私を息子のように可愛がってくれた。

 毎日のように晩ご飯を作ってくれ、何で稼いだかわからない金で近くのバーに連れて行ってくれた。

「息子のように」と言ったが、クリスには実際に3人の子供と妻がいた。刑務所に入るまでは、家族と一緒に暮らしていたらしい。

 明け方になって酔いが回ると、彼は家族を想って泣き始めるのがお決まりになっていた。

 詳しいことは私にはよくわからなかったが、接近するのも禁止されているのか、時々電話で妻に電話していることはあっても、直接会うことはなかった。

 私は当時のことを人生で最も大事な思い出として記憶しているが、彼にとっては非常に辛い時期だっただろう。

 クリスたちと一緒に生活し始めてから半年ほど経ったある日、目を覚ましてキッチンに行くと、高校生くらいの女の子がコーヒーを飲んでいた。

 きっとクリスに前歯が生えていたらこんな顔だろう。すぐにクリスの娘だとわかった。

 その頃から、週末は彼の子供たちがうちを訪問するようになり、映画を観たりして一緒に過ごすようになっていた。一番下の子はまだ4歳で、「日本」という概念も理解していないようだった。

 毎週日曜日の夜に子供たちが帰って行くのを名残惜しそうに見送っていたクリスだったが、なんとついに家族と住むことが決まったという。

 クリスは私と一緒に暮らしていた家から歩いて15分ほどの場所にアパートを借りて妻と子供たちと住み始めた。

 週末は「シーホークス」というシアトルのアメフトチームの試合開始に合わせて毎週クリスの家に集まるのが恒例になっていた。

 そこでクリスの妻であるティサに初めて会った。ティサは私が勝手に想像していたクリスの妻のイメージとはかけ離れていた。メガネを掛けていて真面目そうで、年齢も若かった。

 家に遊びに行くとティサが料理を作って待っていてくれ、試合が始まれば、シーホークスのプレーに絶叫しながら一喜一憂するクリスの横で、彼女はいつもニコニコと笑っていた。

 私が日本に帰る前も、クリスとティサがパーティーを開いてくれた。

 その時に彼らがプレゼントしてくれたシーホークスの「リチャード・シャーマン」のレプリカユニフォームは今も大切に家に飾ってある。

 日本へ帰国してからも、彼らとはよくビデオ通話をしていた。

「今年は絶対東京に行くから待ってろよ!」

 クリスのお決まりの言葉も、現実に起きるとは思わずに過ごしていた。彼らの生活を知っていたからだ。

 2年前、かつてのルームメイトから連絡があった。

「ティサが死んだ」

 原因はヘロインのオーバードーズだった。

 若い頃に弟も同じ理由で亡くしており、ヘロインには絶対関わらずにいたクリスは、怒りとやるせなさで自暴自棄になっているようだった。

 もちろん心配ではあったものの、何と言葉を掛けていいのかわからず、友人を介してクリスの状況を聞いていた。

 ドラッグのプッシャーからは足を洗い、子供3人を養うために清掃会社を立ち上げたらしい。クリスが会社の経営なんて本当にできるのだろうかという疑問はあったが、子供たちが側にいるのが力になっているようだった。

 そして先月、久しぶりにクリスからビデオ電話が来た。

「4月8日に羽田に着く航空券を取った」

 何がおかしいのかわからないが、一人で爆笑しながらそう話すクリスの口には前歯が生えていた。清掃会社の経営が上手くいっているらしく、その金で念願の歯も手に入れたらしい。

 人生で初めてアメリカの外に出ると興奮するクリスに、行きつけのバーやローカルな居酒屋に連れて行くよと提案した。

「そこには美味しいミルクがあるか?」

 クリスは真顔で私に尋ねる。

 ティサの死後、仕事を変えただけではなく、ドラッグはもちろん、酒も一切断ち切ったらしい。学校から家に帰るとビールの空き缶を何十本も積み上げていたクリスを思い出すと、嘘みたいな話だ。

 クリスとの初対面で「マジでヤバイ所に来ちゃったな」と思ったのは今も忘れられない。

 日本であんなヤバい奴は見たことがない。きっと日本で彼に出会う人は恐怖心を抱くはずだ。

 しかし、私の留学生活が、何にも代え難い大切な人生の一ページになったのは紛れもなくクリスのお陰である。

 彼が来るまであと1か月。

 日本で一番美味しいミルクを用意して、最高のおもてなしをしてやろうと計画中だ。

(文/池田ビッグベイビー、編集/福アニー)

【Profile】
●池田ビッグベイビー
1991年生まれ、YouTubeチャンネル「おませちゃんブラザーズ」のメンバー。185cmという巨体を武器に大学卒業後はネズミ駆除の仕事に就くも、YouTuberへ転身。「池田ショセフ」名義で音楽活動も行う。