2023年2月。「ジャンボ」の愛称で親しまれたボーイング747型機の製造が終了し、最後の一機が納品されたというニュースが流れました。
海外旅行といえば「ジャンボ旅客機」という世代にとっては、感慨深いニュース。
さて、今から120年前の1903年。世界初の有人動力飛行に成功したのが「世界の偉人伝」の中に、必ずといってよいほど登場する“ライト兄弟”です。
兄の名はウィルバー、弟の名はオーヴィル。ふたりとも自転車屋さんでしたが、当時、人類の夢であった「動力飛行機」を完成させるために、一念発起して研究を続け、ついに飛行機を完成させたのです。
今回は、そんな世界の偉人、ライト兄弟の「失敗人生」から学ぶ、成功者が陥りやすい落とし穴についての話。
人類初の動力飛行に成功したのに……
ふたりが飛行機を完成させることができたのは、彼らの自転車屋さんとしての技術が大いに役立ちました。プロペラをチェーン駆動にした点が大きかったのです。
加えて、12馬力のエンジンを搭載し、主翼を操縦者がたわませることで、向かい風を利用するなどして、59秒852フィート(約260メートル)の飛行に成功したのです。この成功には、ふたりが初飛行の場を向かい風の強い場所に選んだことと、運よく当日、強い向かい風が吹いたことも幸いしたと言われています。
はっきり言って、人類初の快挙。それまで、数々の人たちが飛行機で空を飛ぶことに憧れ、ときには命を落としてきましたが、人類はついに「金属のかたまり」で空を飛ぶことに成功したわけです。
なのに……。
このライト兄弟の快挙に対する世間の風当たりは、まさかの最悪のものでした。
ふたりは、すぐさま「飛行機」の特許を申請しましたが、これがなかなか認められません。それどころか、飛行の成功を信じてすらもらえませんでした。
新聞紙面に、大学教授が「機械が空を飛ぶことは、科学的に不可能である」と発言した記事が載り、あからさまに批判されたこともあったのです。
ライト兄弟が、ここまで批判にさらされたのには、実は理由がありました。
ひとつは、彼らが名もない自転車屋だったこと。
長年にわたって飛行機の研究をしてきた一部の識者や企業にとっては、「世界初の動力飛行機」の完成者の座を奪われることが我慢できなかったのです。
そして、もしライト兄弟が飛行機の特許を取得してしまったら、将来、飛行機が軍事利用されたときに、莫大(ばくだい)な特許金額を持っていかれてしまうことにもなる。
それは許しがたいことだったというわけです。
富も名声も得られず、裁判続きの人生に
初飛行に成功してからのライト兄弟の人生は、「飛行機の発明者として、自分たちを世間に認めさせるための裁判」に明け暮れたものになりました。
さらに悪いことに、ふたりがそんな不毛な時間を過ごすうちに、飛行機の技術は急速に進歩してしまったのです。
ライト兄弟が初飛行に成功したわずか5年後の1908年には、フランスで世界初の飛行大会が開催されます。
この大会では、飛行時間、高度、速度という3部門で競われましたが、満を持して参加したライト兄弟は、すべての部門で入賞すらできませんでした。
裁判に明け暮れるうち、彼らの飛行機に関する特許の内容は、あっという間に時代遅れなものになってしまっていたのです。
この大会の4年後に、兄のウィルバーは病死。その4年後、弟のオービィルは失意のまま、飛行機製造から身を引きました。
その後、ライト兄弟が「動力飛行機による人類初の飛行機の発明者」として世間に認められたのは、1942年のこと。
初飛行の成功から、実に40年近くたってのことでした。
大成功をおさめながら、悲劇的な人生を送ってしまったライト兄弟。ひとつの成功にすがってしまった彼らの失敗は、大いに学ぶべき点があるように思えます。
もし、彼らが「動力飛行機の技術は、人類の発展のために、大いに役立ててほしい」と声明を発表し、特許の取得をしないでいたら、どうなっていたでしょう。
識者からも企業からも快く受け入れられ、世間からも尊敬されたのではないでしょうか? 何よりも、「富と名声を得るため」の裁判という、無駄なことに人生の貴重な時間を費やさずに済んだと思うのです。
会社にも「あのビッグプロジェクトは、俺の功績なんだ」って、ずっと言い続けている人は、いませんか? ひとつの成功にこだわり、それにすがってしまうと、そこで成長はストップしてしまいます。何よりも、そんな人は周りからの軽蔑の対象になります。
どんな成功も「ただの通過点」。それくらいの気持ちでいれば、自然と未来に目が向きます。
(文/西沢泰生)