長いキャリアの中で数々の賞を受賞し、多彩な演技力に定評のある俳優・光石研さん。インタビュー前編では、出演している映画『波紋』についてたっぷりと語っていただきました。後編では、デビュー当時や出演したドラマの思い出、地元・福岡のおすすめグルメ、最近ハマっていることなど、気になる光石さんの素顔やプライベートに迫ってみたいと思います!
還暦を迎えた今は「嫌われてもいい」
――光石さんは現在61歳、今年で役者歴45年を迎えます。浮き沈みが激しい俳優業をずっと続けていらっしゃるのはすごいことですね。
毎回演じる役が同じ人じゃないからいいのかもしれないです。共演者やスタッフさんも、撮影する場所も違うしね。それがやっぱり気持ちのうえでも新鮮でいられるし、刺激を受けるから続けてこられたのかなと思います。
昨年、還暦を迎えたときは「カウントダウンだぜ」って感じで、感慨深いものがありましたね。それと同時に、いろいろなことを気にせず、カッコつけず、言いたいことを言って「もう嫌われてもいいや」と思うようになりました。
――光石さんのデビュー当時のお話も聞かせてください。16歳のとき、映画『博多っ子純情』のオーディション時の“面白エピソード”があると小耳に挟んだのですが。
僕、オーディションの前日に友達とケンカをして、眉毛のあたりにぱっくり傷を作って何針か縫ったんです。ばんそうこうを貼って会場に行ったら、審査員の中の1人に「君、ここどうしたの」と言われて「実は昨日、ケンカして大負けしました」って言ったらみんな笑っていて。「じゃあ、ちょっと隣同士でケンカの真似してみてよ」と言われたのでやってみたら、それがまたウケたんですよ。その後の2次審査でも、僕が何かやるとみんな笑ってくれて。
僕は小さいころからわりとお調子者で、学校でもふざけたことばっかりやっている子だったんです。今まで大人に怒られ続けてきたことが、そのとき初めて大人に「面白いね」と言ってもらえたことがうれしかったんでしょうね。
──そうして役者を志すも、泣かず飛ばずの時代もあったと思いますが、それでも諦めなかった原動力はどんなものだったのでしょうか。
もともと、ふざけたりするのが好きでしたからね。そこは根底にあるにしても、16歳で「俳優になろう」と思っちゃったから、他を知らないんですよ。あとは「なんとかこの仕事にしがみつこう」とも思っていたのかもしれません。20代ですから「なんとかなる」と思っていたのかもしれないし、その根拠のない自信みたいなものを持ったまま、今に至るという感じでしょうか。
――2022年に亡くなった青山(真治)監督の『Helpless』(1996年)への出演がひとつの転機となったそうですが、青山監督とはどんな思い出がありますか。
青山さんとは同郷なので、よく地元の言葉で話していましたね。青山さんにはいろいろな言葉をもらいましたけど、中でも「俳優を撮っているんじゃない、映画を撮っているんだ」という言葉は忘れられないです。今こうしてインタビューに答えていられるのも青山さんのおかげ。青山さんがいるから、今の僕がいるんです。本当に惜しい人を亡くしました。
――これまで数多くの作品に出演されていますが、「こんな役を演じてみたい」という希望はありますか?
僕らは仕事をいただく側なので、こちらから演じる役や作品は基本的に選べないですから。「この役を光石に」と言っていただいた役のオーダーに、なんとか応えたいと思うんです。そのためには、日々若い人から刺激をもらって「漫然と生きない」ということは意識しています。