演劇とは、観客にダイレクトな気づきや感情をもたらすバーチャルリアリティだ。舞台があり、装置が並び、役者が立つ。役者はキャラクターを演じ、喜怒哀楽を表し、生身の肉体からほとばしるエネルギーは観客一人ひとりの眼前に迫ってくる。役者だけでは成立しないのが演劇の特徴であり、舞台と地続きになって存在する客席があり、そこに観客が座って劇を鑑賞することで初めて成り立つ空間である。
King Gnuの音楽は演劇だ、と考える。彼らが人生について歌うとき、役者が語る即興の台詞のような、どこかドラマティックで物語を感じさせるような表現をしているからだ。そんな音楽を作り上げている彼らのアーティスト写真には、劇場の客席に座り撮られた1枚がある。舞台ではなく客席、という部分にさまざまな思惑を巡らせることのできる、印象的な写真だ。
King gnuが魅せる「観る音楽」
King Gnuと演劇、というテーマについて語るとするならば、彼らの作品のどこに演劇の要素があるのかを最初に明示したい。日本の伝統的な劇といえば歌舞伎や能などが浮かぶが、2020年に2ndシングルとしてリリースされた『三文小説/千両役者』の『三文小説』を聴いてみると、曲の冒頭、箏(こと)に似た音が流れる。箏は舞と融合した音楽として長い歴史を持つ、雅楽で用いられる楽器であり、古来より舞台上で演奏されてきた。
続いて歌詞に注目してみると、本作の主人公は自らの人生を「駄文」「三文芝居」(※)と、取るに足らないものだと形容している。自分の人生をもし物語にたとえたならば、と、主人公の胸中と線引きされ語られる言葉は、他者の人生を追体験することのできる「観劇」という、音楽を聴く行為とは異なる体験をリスナーにもたらす。
※三文芝居:三文ほどの価値しかない程度の低い芝居。現在ではその意味が転じ、馬鹿げた行為や、底の浅い行動・言動のことも指すように。
そして己を小説化し、駄文だといなしながらも「書く=生きる」ことを放棄せず、“僕”は“君”と共生することを選ぶ。
《怯えなくて良いんだよ そのままの君で良いんだよ 増えた皺の数を隣で数えながら》※『三文小説』より
肩をすり寄せ、《君》に皺(しわ)が増えても慈愛の瞳で見つめながら生きるという思いが込められた歌詞からは生身の人間の体温を感じられ、歌舞伎に登場する庶民の世相風俗や義理人情を題材とした世話物の男女を彷彿(ほうふつ)とさせる。アートワークからミュージックビデオ、イントロに一瞬だけ入るエッセンスすべてを包括して、「観る」音楽という新たな境地を開拓する彼らの類まれなセンスとバイタリティは、作品すべてに通じる魅力だといえるだろう。