初めは芝居なんてやりたくなかった、でもやらざるを得なかった
芸能界に入ったきっかけは3歳のころ。僕が迷子になって、助けてくれたのが当時の事務所の社長だったんですよ。今の僕の見た目からは想像できないかもしれませんが、もう、すっごい愛くるしくて、僕!(笑)。その社長が「すごく可愛いからデビューさせなさい」ってことで親にかけあって、翌日からキッズモデルとして活動していました。某ファッション誌とか、某子ども服のモデルとか。
芝居で初めて大役を任されたのが、秋元康さんの初監督映画『グッバイ・ママ』('91年)。僕は当時、芝居なんかやりたくなかったけど、受かってしまったので。そこから『あっぱれ〜』にも出て、ドラマにも出て、主演をやらせてもらうようになって。右肩上がりの状態ですね。その流れに任せて、なんのありがたみを感じることもなく、振られる仕事をこなしていた感じです。憧れて入った世界じゃなかったから、ただただ、やっていた感覚。
小さなころから芸能界の仕事をやっていたので、ドラマや映画が入ったりすると学校に行けないことが、僕の中では普通でした。高学年くらいになってくると、周りと比べて学力は劣るし、運動もすごく足が速いやつには勝てないし。サッカーをやっていたけど、いちばんうまくはなれないし。何かで頂点に立てないことが悔しかったですね。だからそのころから、やりたくない反面、“自分にはこの仕事しかないのかな”とも思っていました。
地元の同級生とは、やんちゃも散々しました。例えばもし、すごく優等生の子たちと一緒に遊んでいれば、僕もそうなっていたかもしれない。だけど、今でも地元の友達はすごく大切だし、彼らがいてくれたから仕事を頑張れていたっていうのも事実です。
自分のやりたいことが初めて叶ったのはSTARSでのバンド活動
僕が20歳のときだったかな。『大江戸ロケット』という舞台で、
芸能界に入って、自分のやりたいことを初めてやらせてもらったのはバンド活動かな。当時の社長が「裕太、好きな音楽をやっていいよ」と言ってくださって、メジャーデビューさせてもらったのがSTARSというバンドです。先が見えない中でやっていた芸能界で、何か自分から生み出したいって思っていたので、やりたいようにさせてくれた会社には感謝しています。全然、成功には至らなかったけど、本当にいい経験をさせてもらいました。
そのころには、露出も昔よりは減っていたのが事実で。世間の人たちって、言い方は悪いですけど、人気者しか応援しないというか。メディアに出ているから応援するわけであって、露出が減ると「あいつまだ生きてんの?」みたいな空気になるじゃないですか。でも、業界の中には「山崎とドラマをやりたい」って言ってくれる人がいたし、応援してくれるファンの人たちもいた。その人たちに応えたいと思って、ここまで続けてきました。