インディーズ・バンドブームからメジャーデビュー
──バンドで、プロを目指していたのですか?
「いやいや。当時インディーズ・シーン(注:80年代後半に、自主製作でレコードを発売しているバンドを中心としたムーブメントが起きていた)の盛り上がりがすごかったから、メジャーでデビューするとか、一切考えてなかった。『宝島』や『DOLL』あたりの、インディーズ・バンドを取り扱う音楽雑誌には、10代20代のバンドマンが自分たちで立ち上げたレーベルの広告が載ってて。“ニューエストやったら、どこのレーベルが向いてるかな。有頂天のケラさんがやってるナゴムレコードなら、いろんな音楽を出してるから合うかもな”とか、実に勝手に、メンバーとしゃべったりしてた。
結局、西村君(R.B.F. RECORDS代表・西村茂樹、THE LOODS)が“うちから出してよ”って声をかけてくれて、まず4曲入りEPの『ニュー・ファンデーション』を1987年の4月にリリースした。でもインディーで活動している間に、いろんなメジャーのレコード会社が接触してきたね」
──メジャーデビューの条件などあったのですか?
「俺は『KING KONG』(大阪にある老舗レコード店)の店員やったけど、そこはインディー・バンドが納品やチラシ配りで立ち寄る店で。周りから、インディーからメジャーに行ったミュージシャンの話を聞いても、あまり良い話は聞かなくてね。例えば、ファースト・アルバムは、ボーカル以外すべてスタジオ・ミュージシャンが演奏してたとか。ついバンド名も言いそうになったけど(笑)。音楽性に口出しされて、プロデューサーによって全然望まない音にされた、とか。俺らは21〜22歳やったけど、自分たちのやりたい音楽が自由にできない、レコード会社のいいようにされてしまう先入観があったから、全然メジャーに行くことには関心がなかったんよね」
──そこから、メジャー・デビューに至る経緯はどのような感じだったのですか。
「1988年当時、メスカリン・ドライヴ(以下、メスカリン)の伊丹英子(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と、『ソウル・フラワー・レコード』というインディー・レーベルを立ち上げたばかりで。ちょうどそのころ、ニューエストにもメスカリンにもメジャー数社からオファーが来てたから、レコード会社に提示する条件を決めておこうということになった」
──どのような条件でしたか?
「バンドは関西に住み続けること。ソウル・フラワー・レーベル(ニューエスト&メスカリン)ごと契約すること。すべてのリリース時期やプロデュースの権限はバンド側が持つこと。当然、外部のサウンド・プロデューサーは入れない。これらの条件を挙げたら、すべてのレコード会社は諦めて引くやろうって思ったんよね。ところがこんな条件でもキングレコードが手を挙げてくれて。ほとんどのレコード会社が、“ニューエストとだけ契約したい”、“メスカリンだけ欲しい”っていう中で、“二つも(バンドを)もらえるんですか?”みたいな(笑)」
──メジャー・デビューしてからは、どうでしたか?
「まあ、そんな条件を飲んでくれたわけやから、結果的に、メジャーに行ってよかったね。バイト辞めれたし(笑)。バイトしながら毎週ライブやって、東京ツアーも月に1、2回やってたから、メンバー全員、かなりキツかったし。契約後まず、1989年の年始は、山中湖にあったリゾート型スタジオに数日入って曲作りをした。ニューエストの『ソウルサバイバーの逆襲』あたりの曲を書いてメンバーとアレンジしたり」
──デビュー当時は、アイドルのように人気があったと奥野さんは語られていましたが………。
「奥野と俺は、違う世界で生きてるよな(笑)。なんか奥野は女の子のファンが多かったな。奥野には黄色い声が飛んで、俺には野太い声が飛ぶ(笑)」