歌とはなにか

 この連載で私がしてきたことをまとめるならば、「ひとりの僧侶が、星野源の歌を聴いて、でかい声で感想を言う」に尽きると思う。

 でも、このときの「歌」とはなんなのだろうか。いざ音楽を聴いたときの心のざわめきを言葉にしようと思うと、どうしても「歌詞」への比重が大きくなってしまう。でも、歌詞はただの言葉ではなくて、そこには「声」が同時に響いている。歌詞と声、できるかぎりそのすべての衝動をつかめるようにと努力はしていたが、毎回の原稿でそれを表現することは難しかった。

 きっと後悔は過去の原体験から生まれている。第1回にも書いたが、本をあまり読まない子どもだった私にとって、近所のTSUTAYAで借りたCDの歌詞カードは、言葉と出会える唯一の場だった。

 こしゃくなことに、私はCDを再生しながら歌詞カードを先に読み、「ははん、そういう曲ね」と浅知恵をはたらかせるガキンチョであった。歌詞として並べられた言葉の羅列から、曲のメッセージなるものを読み取ろうとしていたのである。

 でも、不思議だったのは、遅れて再生された「歌」を耳にしたとき、テキストとしては同じ言葉が表現されているのに、全く異なる感動が湧き上がったことだった。纏(まと)わせていた言葉の意味が、歌によってはぎとられるような感覚。それは手によって書かれ、目によって読まれた言葉が、口によって歌われ、耳によって歌として聴かれることで、別の生き物としての命が宿ったかのような瞬間だった。

 書き残していたとずっと思っていたのは、その歌の不思議さだった。たくさん本を読むようになり、たくさん言葉を知り、それでも今、歌に救われる瞬間があると確かに思えるのは、歌がひとつに閉じようとする言葉の意味を解放してくれているからだ。

 例えば、大切だったものがいつのまにか陳腐に見えてきて、「くだらない」と吐き捨ててしまったとき。その「くだらない」はいつの日か、自分に向かって自分自身を苦しめはじめるだろう。そんなとき、星野源の歌う「くだらない」が切なくも暖かく響いていることを、私は救いと呼ぶのだと思う。

《髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる》

──『くだらないの中に』より

 しかも、ただ与えられるばかりではない。星野源から与えられた「くだらない」を、私は自分の口で歌うことができる。その歌は星野源から継承されたものであるが、その響きは決して同じではない。星野源からの贈りものを受けて、私は私の口で私の意味を歌う。当たり前かもしれないけど、それって歌にしかできないすごいことだと思うのだ。

 この「地獄」は“あの”地獄ではないし、

《嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ》

──『地獄でなぜ悪い』より

 この「ばか」は“あの”ばかでもない。

《これからの色々は ばかで染めよう
ああ もう
ばかなの土は これからもぬかるむ
くだらない心の上 家を建てよう》

──『ばかのうた』より

 歌はその響きで言葉の意味を揺らして、歌い手から聴き手へと渡り、聴き手をまた歌い手へと遂げさせて、意味を一と多のあいだで解放していく。だから、歌は聴いていても、歌っていても楽しい。楽しいとは、そうした「わかりそうでわからない」の連続のなかにあるのだと私は思う。そして、その楽しいという気持ちが、いつか自分に向けた意味の有無を問う声をも霧散させてくれるのだ。

《意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ》

──『恋』より

《意味がないさと言われながらも それでも歌うの》
──『日常』より

 言葉を歌として声に出すこと。それは僧侶となった今の自分からしても、永遠のテーマである。口称念仏と呼ぶが、なぜ「南無阿弥陀仏」と声に出して称(とな)えるのか、私はずっと不思議だった。もちろん、経の解釈によるものであるが、その営みの本当の意味は「人類にとって歌とは何か」というデカい問いから導かれるのだと思う。