寄席のいちばん後ろの席に座る。動物ものまねの江戸家小猫さんが登場。江戸家といえば、やはりウグイス。指を口元に持っていき、「ホ~ホケキョ」とひと声。艶やかで勢いのある声が後方の壁に当たって、跳ね返ってくるのを体感する。まるで緑の中、ウグイスの声を浴びているかのような感覚に陥る。寄席の楽しさ、動物ものまねの心地よさを味わう瞬間だ。
三代目が祖父、四代目が父。自分は「まじめすぎるのがコンプレックスだった」
動物のものまねといえば「江戸家猫八」と誰もが思う。来春、その五代目を継ぐのが当代の江戸家小猫さんだ。祖父はもともと役者としてのベースがあり、NHK『お笑い三人組』で一世を風靡、さらにはテレビドラマ『鬼平犯科帳』(フジテレビ系)で“相模の彦十”として、誰もが納得する渋い味わいを出していた三代目の江戸家猫八。そして父は、野鳥の鳴き声を特に得意としていた四代目だ。
多くの人が祖父や父を知っているため、本人のプレッシャーも相当なものではないだろうか。
「ありがたいことに襲名を推す声は年々増えていたのですが、コロナ禍でなかなかタイミングがうまくいかなかった。今回の猫八襲名興行は、50日間(都内の寄席定席4軒が10日ずつと国立劇場演芸場で10日間)あるんですよ。寄席の定席において、色物(落語や講談以外の漫才、ものまね、漫談、太神楽、紙切り、奇術、音曲など)がトリをとる(最後に出演すること)ことはないので、ありがたいと思う一方、自分につとまるのかという不安もあります。基本、色物というのは“一芸入魂”の世界。ネタの運びは変えてもウグイスは必ず鳴きますし、お客様にはそれを待っていてほしいんです。工夫しながら楽しく頑張ります」
まじめな表情で丁寧に話す小猫さん。舞台もこのまま、自他ともに認める「まじめ」で、それがゆえに芸人には向かないと悩んだ時期もあるという。だが彼は、江戸家の得意とするウグイスや、カエル、秋の虫だけではなく、テナガザル、ヌー、アルパカなど鳴き声が想像できない動物のレパートリーを数多く持っている。まじめな表情、説得力ある口調で「本当にこう鳴くんですよ」と言われると、客は自然と前のめりに聞き、「ほう」と感心してしまう。
もちろん、これらは彼が丹念に動物園に通って身につけた芸であり、実際に動物たちはそう鳴くのだ。ただ、万が一それが「ウソ」であっても、小猫さんに騙されるならそれもよかろうと思わせる何かが彼にはある。淡々と舞台に出てきて、不思議で魅力的な小猫ワールドを繰り広げて客を引き込み、淡々と去っていく。三代目とも四代目とも違う味わいだ。
「祖父はもともと役者だったので、舞台ではなんともいえない色気がありましたね。父は明るくて華があった。でも僕は、ただまじめなだけ、そこがコンプレックスだったんです」
しかし今は、そこが「個性」という強みになっている。
始まった12年間の闘病生活「言葉では言い尽くせないほど家族に助けられた」
子どものころから、父に「跡を継いでほしい」と言われたことはなかった。大学進学を考えていた高校3年生の秋、まぶたが腫(は)れる日が続いた。病院に行くと、ネフローゼ症候群と診断された。最初は2か月ほどで治る、いや、卒業式にも出られないとなって最終的には、なんと12年間の闘病生活を送った。
療養生活中、彼は「自分自身と徹底的に向き合った」と言う。先の見えない療養に焦ることもあったが、自棄(やけ)になったことはない。
「最初は長くても数か月だと思っていたんです。ステロイドを大量投与して、そこから少しずつ薬を減らしていくのですが、とにかく再発しやすかった。1年間は入院生活でした。一時期は歩行困難にもなったし、寝たきり寸前にもなった。そんな中、両親は忙しいのに毎日のように、千葉県の病院まで見舞いに来てくれました。姉は家のことをするために仕事を辞めて……。家族みんなが僕のために協力してくれていたから、強い気持ちで闘えました」
退院後は自宅で服薬しながらおとなしくしているしかない。無理をすると再発して、また一からの治療になってしまうのがわかっているからだ。時間はあっても、未来への明るい希望は抱けなかった。
「好きな絵をたくさん描いたり。パソコンを買ってもらったので、フォトレタッチなどを独学で勉強しましたね。父が、“お金のことは何も心配しないでいいから、焦らずにゆっくりと療養しなさい”と言ってくれたのが心強かった。そんな自宅療養中に、友人が難治性の病気になったんです。希少な病気だから研究も進まない。患者会を作って研究開発を促したいという話を聞いて、自分にできる範囲で活動のお手伝いをしました。ともに活動した仲間はみな、この世を去りましたが、そのときの経験もまた、自分の価値観を大きく成長させてくれました。
20代後半から少しずつ私自身の病気と折り合いがつくようになってきたこともあって、30歳を過ぎてから、立教大学大学院で社会学を学ぶことになったんです。研究テーマは友人とともに活動した患者会について。言葉では言い尽くせないほど家族に助けられたので、私も人のためにできることをしたいと思うようになったんです」
30歳のころ、ようやく寛解。2009年、32歳で立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科に入学すると同時に、そのころ四代目猫八を襲名した父に入門した。
「父からは“芸人にならなくてもいいから、ウグイスだけは鳴けるようになってほしい”とよく言われました。それが江戸家が繋がっている証(あかし)だと感じていたんでしょう。実は病気療養中に、誰もいない家の中でひそかに練習していました(笑)」
小猫さん自身は、継ぎたくないと思ったことはない。ただ、病気のこともあり「やっていけるかどうか」不安ではあったようだ。父の襲名の少し前、ふたりで一緒にバードウォッチングに行ったことがある。
「そこで父にウグイスを聞いてもらったんです。父はちょっと感心した様子で、“今の鳴き方でもいいけど、ケキョのところをもうちょっとこうしたら”とアドバイスしてくれたんです。それでやってみたら、拙いなりに調整できた。“すぐに対応できるのは、ちゃんと修業している証拠”と喜んでくれました」
その後、父は独演会にかぎり自分の舞台に、彼を一緒に出すようになった。舞台で父と並んで、身体に「芸」を刷り込んでいった。「父と一緒に舞台に出ていた1年半は貴重な時間だった」と彼は言う。
ついに二代目「江戸家小猫」に。父に厳しく言われた“芸人としての気遣い”
2年後の’11年、二代目「江戸家小猫」を襲名した。
「そのとき父に言われたのは、“芸は自由に作っていけばいい、そうやっているうちに自分の色が出てくる”ということでした。確かにそうで、何度か、父のネタをそのままやってみたことがあるんです。でも、借り物みたいで気持ちが悪いんですよ。やはり『芸は人なり』なので、親子であっても違う。そして、人間としての自分をきちんと形成しないと芸もよくならないと痛感しました。当時、父が厳しく言ったのは、“寄席の楽屋の中で、どこにいたら邪魔にならないか。それだけはきちんと考えなさい”と」
狭い楽屋には、さまざまな芸人さんがいる。前座さんから大御所の師匠まで、いろいろな人が激しく出入りを繰り返す楽屋で、自分がどこに立っていれば邪魔にならないか。それは「場の空気の流れを読む」ことにつながっているのだ。
「まして私は34歳、しかも猫八の息子ということで周りが気を遣ってくれてしまう。でも私がいちばんの新人なのだから、人に気を遣わせてはいけない。“お前の態度ひとつで決まるよ”と言われました」
根っからまじめで控えめで明るい。そんな性格が、楽屋うちでも客席でも愛されて今がある。
さらに、勉強熱心でもある小猫さんは現在、全国50以上の動物園とかかわりを持ち、動物の鳴き声を身近で研究するだけでなく、シンポジウムでの登壇などもしているという。インタビュー第2弾では、動物園との深い縁についてや、父が病に倒れたときのことなどを詳しくお聞きする。
(取材・文/亀山早苗)
【PROFILE】
江戸家小猫(えどや・こねこ) ◎1977年、東京都生まれ。高校在学中にネフローゼ症候群を患い、12年の闘病生活を乗り越え、’09年に立教大学大学院21世紀デザイン研究科に入学。同年、父である四代目猫八に入門し、大学院修了後、二代目「江戸家小猫」を襲名。都内の寄席を中心に、全国各地での講演会などで活躍。ウグイス、カエル、秋の虫など江戸家伝統の芸はもちろんのこと、テナガザル、ヌー、アルパカなど鳴き声を知られていない動物のネタも数多くある。日本全国の動物園とのつながりから、動物園イベントに出演する機会も増えている。’23年3月に五代目「江戸家猫八」を襲名予定。
◎江戸家小猫 公式Twitter→https://twitter.com/edoneko5
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