暗黒批評家で、映画・音楽ライター及び翻訳家でもある後藤護さんが、黒人音楽の精神史を異端的な観点からアクロバティックに論じた批評集『黒人音楽史―奇想の宇宙』(中央公論新社)。取り上げられるジャンルは、黒人霊歌、ブルース、ジャズ、ファンク、ホラーコア、ヒップホップと幅広く、特に黒人音楽の真髄だという「知性・隠喩・超絶技巧」に着目しています。
また、本書では一見、黒人音楽と関係がないような古今東西のあらゆる文献と交錯させて論じられており、他に類を見ない、まったく新しい批評集となりました。著者の後藤さんに、黒人音楽を論じた背景について聞きました。
本来、黒人を前近代の魔術などと絡めて論じるのはタブーだったが──
──「黒人音楽史」を正統ではなく異端の観点から論じていて、とても面白く拝読しました。本書の冒頭には、《奇想、隠喩、超絶技法を音楽に持ち込んだ結果、万人に理解されることなく終わった「もうひとつの黒人音楽史」が存在する。往々にしてリズムやグルーヴにフォーカスされ、非理性的でソウルフルなものとして黒人音楽は受容されてきたが、本書では知性と言語が過剰にあふれた、怪物的で驚異的な黒人音楽を浮かび上がらせる》と書かれています。
「マニエリスト特有の逆張りって感じで、われながら惚れ惚れするイントロです(笑)。僕のように、黒人文化を前近代の魔術、ましてやブードゥー(ハイチなどの民間信仰)ですらなくルネサンスの魔術思想と絡めて論じるというのは、白(白人)の文化で黒(黒人)の文化を論じるということで、カルチュラル・スタディーズ(1960年にイギリスで始まった、文化を語ることによって社会を分析するための学術的方法論の総称)やポスト・コロニアルの思想が根づいた批評文化圏のルールでは、基本的にNGなんです。もちろん、それらから得るところも多かったものの、その倫理観や正義感を守ることによって、必ずしも面白い批評ばかりが生まれているとは思えませんでした。ヘドニスティック(快楽主義的)なドロドロしたものがないと言いますかねえ。
人類学の古典にして今では魔術系サブカルチャーの聖書・『金枝篇』(国書刊行会)の訳文校正をガチでやっている僕からすると、“差別ダメ、絶対”という風潮にもかかわらず、魔術や呪術を“前近代”、“カルト”などと差別することについては何のお咎(とが)めもないことが大いに疑問で、当世流の言い方を借りるなら、“傷つきました”。というか魔術は、一流の知性から相手にすらされてない(笑)。フランスの哲学者、ジャック・デリダの弟子格である黒人フェミニズム思想家のベル・フックスが、著書『アート・オン・マイ・マインド』で述べていますが、《マルチカルチュラリズム(多文化主義)をとうとうと論じる白人の知識人が、西洋的理性を脅かすような魔術の話になると一気にたじろぐ》と。
要するに魔術とか、現代の必須教養から外れたうさんくさいものは、インテリがいちばん嫌悪するものってわけです。もう進歩史観を前提としている人からしたらね、こんな退行的な、二流の哲学体系みたいなもんを今更持ち出すなって感じなんでしょうが、僕の認識では、つながるはずのないものを結びつけるアナロジーこそが魔術。カルチュラル・スタディーズは厳格な倫理観で守られるものがある一方、つなげることの快楽が落ちてしまうんです。でも、それじゃ批評が面白くなるわけないですよね。
今いちばん足りないのは、魔術=アナロジーだとさえ思います。『前近代』とみなさまが切り捨てた瓦礫(がれき)の中に自分の批評のエッセンスがあるので、僕は後ろ向きに前に進むしかない。アフロ・フューチャリズム(テクノロジーや未来と黒人文化が結びついた宇宙思想)がはやっている時代に、天邪鬼(あまのじゃく)にアフロ・アナクロニズム(時代錯誤)を仕掛けたんです」
菊地成孔さんの影響で黒人音楽に魅了され、“マニエリスム”に着目
──そもそも、なぜ黒人音楽に注目したのでしょう?
「先日、菊地成孔さん(ジャズ・ミュージシャン/文筆家)とWebメディア『リアルサウンド』で対談をして気がついたんですが、菊地さんのTBSラジオ『菊地成孔の粋な夜電波』(’11〜’18年)の影響が大きかった。なんでそれまで、この厳然たる事実を抑圧してきたんだろう、『黒人音楽史』のことをほめられて、何らかのプレッシャーから解放されたのかもしれない(笑)。僕は大学時代、2010年前半ですが、典型的なインディー・ロック小僧で、夏フェスに来日するバンドを見に行くようなタイプでした。Pitchfork (アメリカの音楽系Webサイト)などで多くのレビューを読みあさって、友人と評価の高い音楽アルバムを一つひとつチェックしていたんです。アニマル・コレクティヴとか、ディア・ハンターとか、ビーチ・ハウスとかが好きでした。
でも、大体が白人のバンドであることに疑問すら持ってませんでしたね。そんな無知蒙昧(むちもうまい)だった僕が、菊地さんのラジオでジャズやファンク、ヒップホップとか南米のネバっこい音楽を、軽妙洒脱な語り口で啓蒙されたわけです。ヨイショするわけじゃないですが、いちばんカッコつけたがる大学生のころに、僕の世代は菊地さんから“それは粋じゃないね~”と爽快なまでのカウンターくらっているはず。そして逆に、黒人が作り出した文化に興味を持ったんです。
あの韜晦(とうかい)ぐせ、アイロニー、悪魔的なまでのウィットの働きからして、菊地さんは本質的にマニエリストなんですよ。イタリアを中心に、ルネサンス時代からバロック時代にかけての短い間に倒錯的なアートが流行(はや)ったんですが、これはローマ劫掠(1527年)のような社会的な混乱による精神的危機を反映していて、 錯綜した線のたわむれ、シュルレアリスムに先駆ける非現実的な空間構成など、極度の技巧性・作為性を特色としています。イタリア語のマニエラ(手法)の形容詞『マニエラート』は『自然を欠く、わざとらしい』って意味もありますね。1950年にG・R・ホッケ(ドイツの文化史家)が、その終末的な世界の断片を蒐集(しゅうしゅう)・彌縫(びほう)する芸術様式を人類に普遍的なものととらえて、『マニエリスム』と呼びました。
マニエリスムの語源は、『マナー』=『手法』『品格』があるということ。菊地さんがラジオで黒人音楽やフランス料理などを語る手法を見ているなかで、“アフロ・マニエリスムとは何たるか”を学んだ気がします。アフロ・マニエリスムは、黒人文化にマニエリスムを接合した奇怪なキマイラ(怪物)ともいえる概念で、その中核には、本書最大のキーワードにもなっている“驚異と奇想”があります。ただ、僕の場合は音楽理論の分析をするのではなく、(英文学者・)高山宏が扱うような“異端ヨーロッパ”系の思想と組み合わせることで、黒人音楽を論じてみようと思ったんです」
──従来の日本の黒人音楽批評に不満があったそうですね。
「僕は高山宏のほかに澁澤龍彥、種村季弘、山口昌男、松岡正剛といったポリマス(博識家)たちの著書を偏食ぎみに読んできましたが、彼らのように読み方が独特で、奇想天外で四方八方にいっちゃう(でも最後は内村航平のように見事に着地する)感じが、既出の黒人音楽批評にはまったくなかった。でもこのジャンルは、絶対そういう百科全書的な攻めた論じ方ができることがわかっていたんですよ。だってヒップホップなんて、ワケのわからないことをやっている人たちばかり。従来型の批評で論じられるわけないじゃん! と。まず、サンプリング(主にファンクやジャズなどの音源から『声』や『音』などを抜粋する手法)がどれだけ革命的な編集工学であったかすら、マニエリストの僕としては、ちゃんと書かれていない、と感じたんです」
ブルースはある種の「鳥獣戯画」!? 動物がとにかくたくさん登場
──読んでまず衝撃だったのは、ブルースと日本の「鳥獣戯画」(動物たちが擬人化され、相撲や遊び、宴会を繰り広げる絵巻物)を合わせて考察していることです。ブルースでは動物がよく歌われるそうで、そのなかでも鯰(なまず)には「自由」が、害虫には「忍耐」が、蜘蛛(くも)には「淫欲」が象徴されていることなどを論じています。
「この章がいちばん、反響が大きかったですね。ブルースは肉体労働をする人々が、安酒場に行って安い酒を飲んで、その感情を歌うという世界。家の中でダラダラ本を読んでいる私とは、もっとも縁が遠いんですけれど(笑)。でも歌詞のなかに動物がたくさん出てくることに気づいてしまった瞬間に、もう居ても立ってもいられなくなって。ゲームボーイのポケモンに夢中だった少年マモルが、ブルースの中にファンタスティックなポケモン世界を発見してしまった! みたいな感じで。ポケモン・ブルースですね(笑)」
──ブルースと動物には密接な関係があるんですね。
「とにかく動物が山ほど出てきて、本当に変な世界だと思ったんですよ。これはパースペクティブ(遠近感)を変えてしまえば、ある種の鳥獣戯画としてとらえられる。“ファンタスティック”の世界をこじ開けられると思ったんですよね。
ブルースは基本的に米国南部のカントリー音楽なので、人々の生活圏の中に普段から動物や虫がいて、親しみのある存在だったのでしょう。ブルースの名門レコード会社にも、『アリゲーター・レコード』や『ブルーバード・レコード』など、動物の名前がついたものが複数あるんです。
よく調べてみれば、20世紀の初頭には、黒人の赤ん坊をワニの餌(えさ)にしているような最低なポストカードがおみやげ屋で売られていたんです。だからアリゲーター・レコードというのは、黒人のカリカチュア(風刺、寓意、ユーモアを含んだ絵画・記述などの総称、もしくはその表現手法)の歴史を踏まえたうえで、それを転倒させている、とファンタスティックに妄想することもできる。動物の負の歴史も知っておかないと、ブルースの深さはわからないと思いました」
一風変わった肩書きを持つハリー・スミスのアルバムがヒントに
──しかし、それを鳥獣戯画と合わせるとは唯一無二ですよね。
「前衛的な音楽出版社であるカンパニー社から出た『ハリー・スミスは語る』という、すごく変な本があります。ハリー・スミスは魔術師で錬金術師で、イースター・エッグや紙飛行機の蒐集家で、パティ・スミスやアレン・ギンズバーグの友達だった人。チェルシー・ホテルの一室を本だらけの住処(すみか)にしていました。まあアメリカの南方熊楠、平賀源内といったところでしょうか。
そんな変人が1952年に『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』という音楽アルバムを作ります。これは炭鉱夫や農夫などが作ったカントリー、フォーク、ブルースなどを集めたアンソロジーです。しかしそのジャケット写真は、ルネサンス時代のロバート・フラッドという魔術師の著作からの引用なんですよ。
アメリカの鄙(ひな)びた音楽を集めて、なぜそんな表紙なんだ! と。わけがわからないでしょう。でもこのアンソロジーは、ボブ・ディランなどの有名ミュージシャンにも大きな影響を与え、アメリカの音楽史において重要な作品だったわけです。そんなハリー・スミスがヒントになった。全然いけるわ、ブルースと魔術は一緒になるわ! と感じたんです」
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めくるめく黒人音楽の世界を論じる後藤さんの視点は、まさに“ファンタスティック”! インタビュー第2弾では、ジャズやヒップホップについて深掘りしてもらいつつ、後藤さんご自身が大事にしていることなどにも迫ります。
(取材・文/篠原諄也)
【PROFILE】
後藤護(ごとう・まもる) ◎暗黒批評家、映画・音楽ライター、翻訳家。1988年山形県生まれ。著書に『黒人音楽史―奇想の宇宙』(中央公論新社、2022年)、『ゴシック・カルチャー入門』(P-VINE、2019年)。魔誌『機関精神史』編集主幹。Real Sound Bookにて「マンガとゴシック」連載中(書籍化予定)。キネマ旬報、ele-king、Real Soundをメインに映画・音楽・マンガ評を寄稿。