50歳でTBSを退社し、翌年2月に初エッセイ集『一旦、退社。 50歳からの独立日記』(大和書房)を刊行したフリーアナウンサーの堀井美香さん。インタビュー前編では、退社を思い立った経緯や執筆について率直な想いを語ってもらった。後編ではプライベートにも焦点を当て、子育てを終えて”卒母“ライフを満喫中の日常やライフワークともいえる朗読イベントに迫る。
卒母に際して娘が寄せた言葉に感じ入る
──エッセイには子育てを終えて母親を“卒業”し、一人の女性や人間に戻った実感も綴られています。
フリーになったこと自体も、子どもが私の手を離れたことが大きいですよね。土日や深夜も自分の時間って、とても贅沢。何をして過ごすか、自分で決められるわけですから。子育て中は90%くらい子どものことを考えていたのが、現在は10%くらいに圧縮されています(笑)。
──外食を楽しむようになったことも、卒母ライフの一環でしょうか。温かい駅そばにむせび泣く章に共感を寄せる同じ境遇の読者もいらっしゃるのではないか、と思います。ポッドキャスト『OVER THE SUN』でジェーン・スーさんによく叱られているように、たんぱく質を摂らず炭水化物ばかりの食生活も、お子さんが独立したからできることなのかな、と。
キッチンに立たなくなって久しいですね。大学生の息子はまだ実家住まいですが、バイトや友人とのお付き合いがあって毎食を家でとるわけではないので。母親の私がつくらないと、自分で野菜とか炒めて食べるんですよ。それを「ひと口ちょうだい」と言って、分けてもらったりしています(笑)。あと夫が料理好きになったのも大きいかな。最近は「母は料理しない」というのが定着して、誰も私に期待していません。
《人にとって、食事の意味はいろいろだ。人と人とを繋ぐもの、規則的に栄養をとるためのもの、新しい刺激を見つけるためのもの。
でも子育てを終えた自分はきっと、食事の意味がわからなくなっていたのだと思う。
小田急線沿線には「箱根そば」という駅そば店がある。いつも頼むのは、めかぶそば。少し濃いめのつゆとちょうどよい茹で加減の素朴な蕎麦、上にはたっぷりの天かすと半熟の卵、そしてとろとろのめかぶが乗っている。
今日、そのお蕎麦を食べながら、なぜか泣いた。いや、泣きじゃくった。
体に染み込んでいくつゆも、丼を包み込む両手も、すべてが温かった。
アクリル板に挟まれた肩幅くらいの場所は、洞穴(ほらあな)のようで、蕎麦をすする音は自分にだけ響いた。
最近、気持ちの揺れは確かに激しかったが、ストレスを抱えていたわけでもない。
ただただ、温かいお蕎麦が美味しくて、泣けたのだ。》
(『一旦、退社。 50歳からの独立日記』より)
──共感したのが、エッセイの中で「一生につくる料理の上限数は決まっている。それをとうに超えているから、料理から離れているいまの自分に罪悪感がない」っていう堀井さんの持論で。
雨の日も風の日も、一日も休まず料理してましたからね。わりとちゃんとやっていたんですよ。お弁当もつくったし、ハレの日のごちそうも……娘が「友達を家に呼びたい」と言ったらパーティーみたいな料理にも挑戦して。いまはデリバリーやケータリングもあって外注できますけど、当時はそれほど主流ではなかったんですよね。
──ともすれば「自炊や手づくり至上主義」が幅を利かせがちな母親道において、堀井さんの「料理から離れていることに罪悪感がない」というスタンスは、ライフステージを問わず全母親が抱える「冷凍食品やコンビニ飯、デリバリーで済ませてしまった」という葛藤を楽にしてくれるのではないかと思いました。
私の場合、娘も息子も手が離れ、自分たちで栄養を摂れるようになったから放っているんですよね。でもまだ手のかかる小さな子どもがいたら「ちゃんと食事させないと」って意識があるから、料理を手放すことはしないと思います。それくらい遊びも余白もなくて、栄養を摂らせることに必死でした。実は冷凍食品すら使わなかったんですよ、罪悪感があって。
振り返ると子どもそっちのけで料理に没頭していましたね。仕事から帰って、どんなに疲れていてもつくるんです。話しかけられても「ちょっと待って」と制して相手にしないくらい、自分の手でつくることにこだわっていました。でもいま思えば子どもに切ってもらった野菜をお味噌汁に入れるとか、一緒につくれたらよかったかな。料理を子どもと過ごす時間にできるなら、冷凍食品を活用したっていい。いまは時代に合ったやり方で、いくらでも楽しめる環境が整っていると思います。
──堀井さんがやっていらした料理を「義務感」とくくってしまうと乱暴でしょうか?
どうかなぁ。でも、どう考えても義務感から来る衝動ですよね。苦しかったし、大変でしたよ。最近もね、「お父さんの料理はおいしいけど、お母さんのはないよね」って姉弟二人で盛り上がっていて「お母さんがつくるのはやさしい味わいのひじきやきんぴらばかりだから、お父さんのお好み焼きが楽しみだった」らしいですよ。楽しく思い出してもらえる料理があって、うらやましい限りです(苦笑)。
──とはいえ娘さんの書かれた「あとがき」を拝読したら、堀井さんの愛情がしっかり伝わっていることがわかりました。こんな風に書いてもらったことを、どのように感じていらっしゃいますか?
娘が書いてくれたようなポジティブなところだけじゃなくて、泣いたり声を荒げているイヤな面も知っているわけですから、わたし以上にわたしを知っているのが子どもたち。彼らが大人になって、サラサラっとすぐ自分の言葉で形にしてくれたことが何より嬉しかった。
実は「いつも他人の幸せを願っていました」という一文って、娘が小さかったときに言い聞かせていたことだったんです。「自分だけが楽しいことって、すぐ終わっちゃうよ」って。お菓子をもらっても、独り占めしたらうれしい気持ちは自分一人の中ですぐ過ぎ去ってしまう。でも「誰かに分けて喜んでいる姿を見たら、幸せな気持ちが長続きするでしょう?」「幸せを誰かに分けたら自分もうれしいよね」と。娘が就いた仕事を見てもそうだし、息子の性格的にも、自分が幸せでいることより他者を讃えるタイプ。だからこの一文を見たときに「あ、私が言ったことを覚えていたんだ」と思って、人知れず感じ入ってしまいました。
──最近の『OVER THE SUN』でスーさんとお話しされていることにも通じる気がしました。「他者から奪われないものは、どんどん人に渡していこう」って。利他の心ですね。
朗読には作品に込められたメッセージを伝える使命がある
──フリーランスになってから堀井さんが精力的に始めた活動のひとつに、朗読会シリーズの「yomibasho」があります。読む本には「どうしたら人として強く優しく生きられるのか」というテーマを選ぶことが多く、エッセイでは「読むことで理想像に近づきたい」とおっしゃっていました。
私はすぐ「どうせ」と卑下するし、理不尽な目に遭っても「すいません黙ってます」と飲み込んでしまう弱い人間。だから「本当の意味で強くて優しいってどういうことなんだろう」と、課題として生涯ずっと考え続けるであろうテーマを題材に選びたいと思いました。本からいろんな人の生き方を読み解き、学んでいけたら。
例えば全仕事の中で2〜3割の時間を一緒に過ごしているジェーン・スーが他人に差し出すのは、うわべだけのすぐ受け取れるような簡単な優しさじゃないんですよね。一見、厳しく見えるようでも結局いちばん優しいのがスーちゃん。彼女のようになれないかもしれないけど、そういうエッセンスを吸収して少しでも近づき、自分にできることを追求していきたいです。
──堀井さんなりの「強くて優しい」を実現できる手段として「朗読」があるのでしょうか?
朗読で社会を変えることは難しいし効果的なやり方でないと思うんですが……私ができることのひとつ、なのかな。たとえば小林多喜二の母が息子について回想する三浦綾子さんの小説『母』には、すごくメッセージ性があって。朗読するなら、作品に込められたメッセージを伝えていく使命があると思っています。
──母セキが多喜二について秋田弁で回想する三浦綾子さんの『母』とは、思いがけない出逢いでしたよね。堀井さんの故郷・秋田と追求したいテーマが重なって。
本当に! ああいうことが起こると、もう勝手に思い込んじゃいますよね。神様の思し召しじゃないですけど、「私に何か伝えているんじゃないの?」って。
──そういう本を、どうやって探していらっしゃるんですか?
図書館に通って、いろんな小説を開いてみるんです。好きな文体や目に止まる表現があったら、じっくり読み込んで。これまで藤沢周平が書くような、耐え忍ぶ女性が主人公の作品を好んで手に取っていたんですが、強く生きる女性が登場する作品に惹(ひ)かれるようになりました。多喜二の母セキさんは、そういう女性像とは異なるんですけどね。
──「ジャイアンリサイタルの延長線上」「自分のためにやっている」とおっしゃるライフワークの朗読を、他者にひらく機会も増えてきました。イベント開催を通じて得た収穫は何ですか?
ツイッターやお手紙で反響をいただくと「そういう時代があったことを初めて知りました」とか「秋田に小林多喜二がいて、あんな風に暮らしていたんですね」とおっしゃる方が多くて。朗読を通じて作品の世界に触れてくださったことがうれしいです。
──エッセイで「言葉にキャラクターの気持ちを乗せる大切さがわかってきた」とおっしゃっていました。ずばり、俳優業に挑戦するお気持ちは?
(即答して)ないですね。いま俳優さんが数多くいらっしゃる事務所に所属しているので、いろんな方とお話しする機会があるんですが……あの方々たちは身体にセリフを入れ込むし、自分自身が役になってしまいますよね。朗読劇の舞台に役者さんと立たせてもらう中で、身体の使い方がまるで違うことがよくわかりました。言葉より、目線や表情や動きを優先していらっしゃるのかな、って。
一方で私がずっとやってきたのは、文字をわかりやすく人に伝えること。キャラクターの心情を理解して表現しますけど、私自身が役になりきるわけではないんです。
──堀井さんは堀井さんのまま、朗読していらっしゃるんですね。
そうそう!
──生き物として異なることがよくわかりました。亡くなった野際陽子さんのようにアナウンサー出身の俳優がいらっしゃるので、堀井さんもそういった方面に興味あるのかな、と思ってお聞きしました。
事務所のスタッフから「最初はドラマで死人の役からどうでしょう」と言われていますが(笑)。それよりまず、8月26日に開催する秋田での朗読会を成功させないと! 同じ日の夜に打ち上がる大曲の花火に負けないように、新劇場ミルハスの800席を地道に埋めていきたいですね(笑)。
(取材・文/岡山朋代、編集/福アニー、撮影/松嶋愛)
【Information】
●書籍『一旦、退社。 50歳からの独立日記』(堀井美香著、大和書房刊)
50歳でTBSを退社した著者が見本も模範もないフリーの世界に出た1年を綴った日記。新しい仕事、卒母、服装、美容まで赤裸々に!