日本のミクスチャー・ロック・バンドの先駆けともいえる「ソウル・フラワー・ユニオン」。今年で結成30周年を迎え、ますます精力的にライブ活動中です。その中心メンバーでもあり、楽曲の作詞作曲も手がけるのがミュージシャンでギタリストの中川敬(57歳)。
今回は、中川さんが楽器を始めたきっかけや、デビューに至るまでの経緯、そしてソロ活動とバンドとの違いについてお聞きしました。
10歳以上年上のメンバーに交じってバンド活動
──楽器を始めたのはいつごろでしたか?
「ギターを弾き始めたのは小学校5年生のときやったね。近所に住んでた好きな女の子がギター教室に通ってて、俺もギターを弾かなあかん、と思った(笑)。当時、アイドル雑誌の『明星』や『平凡』に、ヒット曲のコード表が載っている歌本が付いてた。それを見て、コードを覚えながら弾き始めたのが入り口やったな。ビートルズに取り憑かれた中学2〜3年のころは、それこそ登校時以外は一日中ギターを触ってた。エレキギターを買ったのが高校1年のときで、そこからはローリング・ストーンズやザ・フーあたりのブリティッシュ・ロックを耳コピしながら、バンドをやるためのメンバー探しを始める。もうバンドがやりたくてしょうがなかったんよね」
──「ニューエスト・モデル」(ソウル・フラワー・ユニオンの前身バンド)は、始めてから何番目のバンドでしたか?
「自分で作ったバンドとしては2つ目やったね。16から18のころに『レモン・スクイーザー』っていうバンドを自ら結成してエレキギターを弾いてたんやけど、そのバンドには別にボーカリストがいてね。まだ俺は歌ってなかった。その後、2年ぐらい、俺が入り浸ってた大阪ミナミのロック喫茶の常連たちのバンドにギタリストとして加入したりして、大阪バーボンハウスや京都磔磔、新宿ロフト、渋谷La.mamaあたりのライブハウスにも出演し始めたんよね」
──当時のライブハウスは、ケンカが起きることもあったそうですね。
「流血戦がよくあったよね(笑)。当時は社会からドロップアウトしたヤツや、鬱屈したものを抱えている連中が、ライブハウスで、個性豊かに鬱憤ばらしをしてた時代やったから、今の若い人たちのノリとは、時代背景も含めて、だいぶ違うやろうな」
──バンド活動はずっと続けていたのですか?
「高校を出てからは、年上ばかりに囲まれる環境で。俺が19で、いちばん年が近い人が24、ベーシストは10個上、とかね。そのバンドが解散して、“さあ、いよいよ本格的に自分のバンドを作るぞ”ってなったときに、高校時代の後輩(高木基弘、ベン)に声をかけて結成したのが『ニューエスト・モデル』(以下、ニューエスト)」
「ピアノが弾ける」とウソをついた奥野真哉との出会い
──ソウル・フラワー・ユニオンのキーボードを務めている奥野さん(奥野真哉)のインタビューでお聞きしたのですが、おふたりの出会いはレコード屋さんだったそうですね。
「ニューエストのライヴ活動を始めて半年ぐらい経ったころ、ソノシート『オモチャの兵隊』(1986年8月)を出したすぐあとぐらいのとき、ある日、大阪ミナミのタワーレコードで、黙々とレコードを掘ってたら、俺の顔の前にザ・フーのベスト盤『ザ・ストーリー・オブ・ザ・フー』を差し出す男がいたんよね。ストリート・スライダーズのハリーそっくりの髪型をした男が、“ニューエストの中川さんですよね? ファンです”って話しかけてきて。ちょっと立ち話をしたら、知り合いの知り合いということが判明して、“ちょっとそこの喫茶店で話そうか”ということになった」
──偶然の出会いから、長きにわたるメンバーとなったのですね。
「ニューエストはトリオ・バンドとして始めたけど、当時俺は、スモール・フェイセスやドアーズみたいな、オルガンが入ってるロック・バンドが好きやったから、メンバーにキーボードを入れたいなと思っててね。そのへんの話を喫茶店で奥野にしたら、“俺、ちょっとピアノを弾いたことがあります。文化祭でローリング・ストーンズの『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』をやりました”とか言うわけ。のちにそれは、まったくのウソやったということが判明するんやけど(笑)」
──奥野さんはギターを希望されたみたいですね。
「“ギターで入れてほしいです”とか言われたけど、もう一人ギターを入れる気はまったくなくて。一度スタジオでセッションしてみようということになって、あまりに“ギター、ギター”って言うから、ギターを弾かせてみたら、全然ダメで(笑)。奥野がスタジオから帰った後、残りのメンバーで“あれはヒドかったなー”みたいな(笑)。奥野よりも年下のベースの高木は、“でも、ルックス的にはあいつ使えるなー”とか言ってるし(笑)。ヒドい!(笑)。
で、後日、奥野の家に電話をして、“やっぱりキーボードでもう一回セッションしよう“と伝えて。そのときも“ギター、ギター”って言うてたな(笑)。当時はよく練習スタジオにヤマハのシンセサイザー『DX7』が置いてあったから、“それを使って、こないだセッションした同じ曲をオルガンで弾いてくれ”と。数日後に再セッションをしたんやけど、当時は俺らもみんなヘタくそやったから、大音量の演奏の中で、ヒューヒューってな具合にオルガンの音が遠鳴りしてるだけで、“かっこええやん!”って思うんよね(笑)。“まあ、たまにギターも弾いたらええやん”とか適当なことを言いながら、1986年10月、奥野真哉、キーボードとして加入(笑)」
──オルガンが加わって、音楽的にどう変化しましたか?
「その一週間後にはもう渋谷La.mamaでライブしてた、っていうのがすごい話やけど、いきなり音楽的な幅が広がったような気がしたよ。適当この上ない(笑)。ほとんどキーボードを弾いたことがなかった奥野は、いきなり大変なことになったわけやけど(笑)」
インディーズ・バンドブームからメジャーデビュー
──バンドで、プロを目指していたのですか?
「いやいや。当時インディーズ・シーン(注:80年代後半に、自主製作でレコードを発売しているバンドを中心としたムーブメントが起きていた)の盛り上がりがすごかったから、メジャーでデビューするとか、一切考えてなかった。『宝島』や『DOLL』あたりの、インディーズ・バンドを取り扱う音楽雑誌には、10代20代のバンドマンが自分たちで立ち上げたレーベルの広告が載ってて。“ニューエストやったら、どこのレーベルが向いてるかな。有頂天のケラさんがやってるナゴムレコードなら、いろんな音楽を出してるから合うかもな”とか、実に勝手に、メンバーとしゃべったりしてた。
結局、西村君(R.B.F. RECORDS代表・西村茂樹、THE LOODS)が“うちから出してよ”って声をかけてくれて、まず4曲入りEPの『ニュー・ファンデーション』を1987年の4月にリリースした。でもインディーで活動している間に、いろんなメジャーのレコード会社が接触してきたね」
──メジャーデビューの条件などあったのですか?
「俺は『KING KONG』(大阪にある老舗レコード店)の店員やったけど、そこはインディー・バンドが納品やチラシ配りで立ち寄る店で。周りから、インディーからメジャーに行ったミュージシャンの話を聞いても、あまり良い話は聞かなくてね。例えば、ファースト・アルバムは、ボーカル以外すべてスタジオ・ミュージシャンが演奏してたとか。ついバンド名も言いそうになったけど(笑)。音楽性に口出しされて、プロデューサーによって全然望まない音にされた、とか。俺らは21〜22歳やったけど、自分たちのやりたい音楽が自由にできない、レコード会社のいいようにされてしまう先入観があったから、全然メジャーに行くことには関心がなかったんよね」
──そこから、メジャー・デビューに至る経緯はどのような感じだったのですか。
「1988年当時、メスカリン・ドライヴ(以下、メスカリン)の伊丹英子(ソウル・フラワー・モノノケ・サミット)と、『ソウル・フラワー・レコード』というインディー・レーベルを立ち上げたばかりで。ちょうどそのころ、ニューエストにもメスカリンにもメジャー数社からオファーが来てたから、レコード会社に提示する条件を決めておこうということになった」
──どのような条件でしたか?
「バンドは関西に住み続けること。ソウル・フラワー・レーベル(ニューエスト&メスカリン)ごと契約すること。すべてのリリース時期やプロデュースの権限はバンド側が持つこと。当然、外部のサウンド・プロデューサーは入れない。これらの条件を挙げたら、すべてのレコード会社は諦めて引くやろうって思ったんよね。ところがこんな条件でもキングレコードが手を挙げてくれて。ほとんどのレコード会社が、“ニューエストとだけ契約したい”、“メスカリンだけ欲しい”っていう中で、“二つも(バンドを)もらえるんですか?”みたいな(笑)」
──メジャー・デビューしてからは、どうでしたか?
「まあ、そんな条件を飲んでくれたわけやから、結果的に、メジャーに行ってよかったね。バイト辞めれたし(笑)。バイトしながら毎週ライブやって、東京ツアーも月に1、2回やってたから、メンバー全員、かなりキツかったし。契約後まず、1989年の年始は、山中湖にあったリゾート型スタジオに数日入って曲作りをした。ニューエストの『ソウルサバイバーの逆襲』あたりの曲を書いてメンバーとアレンジしたり」
──デビュー当時は、アイドルのように人気があったと奥野さんは語られていましたが………。
「奥野と俺は、違う世界で生きてるよな(笑)。なんか奥野は女の子のファンが多かったな。奥野には黄色い声が飛んで、俺には野太い声が飛ぶ(笑)」
ソロとバンド活動の違いとこだわり
──中川さんはソロでも活動されていますが、ソロとバンドで曲も分けていたりしますか?
「語弊があるかもしれないけど、基本、曲作りは全部ソロのために書いてる。自分が歌うために書く、ということやね。最近は、ソウル・フラワー・ユニオンの曲も、バンドで演奏する前にまず弾き語りで歌うしね。バンドのほうが合いそうやったらバンドで演奏するし、ソロのほうがよさそうやったらアコースティックで演奏する。バンドだから、ソロだからというのではあまり分けてないかな」
──今回のソロ・アルバム『夜汽車を貫通するメロディヤ』(7月5日発売)は、どのような部分をこだわりましたか?
「ずっと長い間バンドでやってきてるから、ソロ・アルバムでは、それとは違うことをやりたいっていう欲求が働く。ひとりで表現できる音世界が、年々、好きになってきててね。今回のソロ・アルバムは、ニューエスト、ソウル・フラワー・ユニオンを入れて、自分の最高傑作と言い切れる。それくらい今回、本当に気に入ってるんよね」
──では、バンドならではのよさはどういう部分だと思いますか。
「やっぱりバンドならではのマジックが起きること。俺は曲ができるとレコーディングするまでに歌詞の推敲を重ねるタイプで。でもバンドって、アレンジとか曲の長さとか、ある程度決まってしまうでしょ。そこがバンドの弱点でもあり強みでもある。だから推敲を重ねない、雑にバーッと書いた歌詞をバンドで演奏すると、面白いもので、逆に映えるときがある。逆に乱暴さが生きる、というか。複数人の奏でる音塊が、歌世界を豊穣にする。それがバンドのマジックなんよね」
──Twitterでは大還暦(120歳)まで歌いたいと発言されていました。
「120まで生きる、やね(笑)。歌うのは100ぐらいまでかな(笑)。音楽をやるしかない。それしかないから。ほかにいろいろ才能があればよかったけど、本当に音楽しかない。メロディーと歌詞ができあがって、一曲が完成した瞬間の喜びって、何ものにも代えがたいんよね」
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前編では中川さん自身のキャリアについて語っていただきましたが、後編では海外遠征や被災地での音楽活動、名曲『満月の夕』の誕生について迫ります。
(取材・文/池守りぜね、編集/小新井知子)
《PROFILE》
中川敬(なかがわ・たかし)
1966年3月29日生まれ、兵庫県西宮市出身の日本のミュージシャン。ニューエスト・モデルなどのバンド活動を経た後、’93年にソウル・フラワー・ユニオンを結成。ロック、アイリッシュ、ソウル、ジャズ、パンク、レゲエなどさまざまな要素を貪欲にとりこんだ雑多な音楽性で高い評価を得る。’95年にはソウル・フラワー・モノノケ・サミットを結成し、被災地での出前ライヴを開始。そのほか別ユニット活動も精力的。2011年にリリースしたアルバム『街道筋の着地しないブルース』がファースト・ソロ作。
★2023年7月5日にソロ・アルバム第5弾『夜汽車を貫通するメロディヤ』発売!