70年代のコカ・コーラヨーヨー、80年代の『スケバン刑事』(フジテレビ系)や人気ドラマのアイテム、90年代の『ハイパーヨーヨー』と、“ヨーヨー”は手軽に遊べるおもちゃとして世間に認知され続けてきました。
特に90年代にバンダイから発売された『ハイパーヨーヨー』はそれまでのヨーヨーとは一線を画し、現代においても子どもから大人まで楽しめるおもちゃとして愛されています。
そんなハイパーヨーヨーがきっかけで、日本人初のヨーヨーマスターとしても多くの大会で実績を残しているのが、株式会社そろはむ代表兼ヨーヨーマスターTAKAこと長谷川貴彦(はせがわ・たかひこ)さん。
小学生のころからヨーヨーを始め、大学の卒論はヨーヨーを選び、卒業後はヨーヨーを取り扱う企業へ入社、店長としてヨーヨーのオンラインショップを立ち上げ、ワールドヨーヨーコンテスト、アーティスティックパフォーマンス(AP)部門で1位を獲得……長谷川貴彦さんの人生はまさに、「ヨーヨーに魅せられた人生」と言えるでしょう。
25年以上もの間、ヨーヨーに魅せられ、ヨーヨーを愛し続けてきた長谷川さん。ヨーヨーとともに歩みを進めてきた人生を振り返り、なぜそれほどまでヨーヨーにのめり込んだのか、ヨーヨーに出会って人生がどう変わったのか? その歩みに迫りました。
人生を変えたハイパーヨーヨーと、ヨーヨーの神様との出会い
――長谷川さんがヨーヨーにハマったのは、80年代に放送された『スケバン刑事』がきっかけだそうですね。
「そうですね。それまでは竹とんぼやコマ回しなど、昔ながらの遊びが好きでした。『スケバン刑事』をきっかけにヨーヨーも遊ぶようになり、一気にハマりました。」
――大学の卒論テーマも「ヨーヨー」だったとのことですが、大学までずっとヨーヨーを続けてきたんですか?
「高校・大学のころもたまにヨーヨーで遊んでいたんですが、小学生のころほどではありませんでしたね。でもヨーヨーへの熱が再燃したのは、大学4年生のときに行った展示会で、『ハイパーヨーヨー』に出会ったことでした。
まず、それまで遊んでいたヨーヨーとまったく違う動きをしたことに驚きました。それに加え、展示会ではハワイの子たちがプロモーションに出演していたことから、アメリカ特有のカッコいい文化にひかれた部分もあります。ハイパーヨーヨーがヒットした理由っていろいろ語られるんですけど、結局は”見ていてカッコいい”が一番の理由だったんです」
――同時期にアメリカのヨーヨープレイヤー、デール・オリバー(※)さんと出会ったこともヨーヨーへのめり込むきっかけになったんですよね。
「ハイパーヨーヨーに出会った数か月後にイベントがあり、そのときにオリバーさんと出会いました。周りは子どもばかりで僕だけ大人で目立っていたんですが、ヨーヨーの技を見せたら“うまいから一緒にステージ上でやろう”と声をかけてもらって。それまで一人で遊んでいたヨーヨーを人前で披露するだけでなく、そのまま夜ご飯にも連れて行ってもらいました。ヨーヨーの神様みたいな人で、人生をかけてヨーヨーをやってきた人にいろいろなことを教わり、“こういう生き方もあるんだ”と感銘を受けたんですよね」
(※デール・オリバー:アメリカのヨーヨープレイヤーで、競技としてのヨーヨーを確立させた先駆者的存在。俗に「フリースタイルヨーヨーの父」と評される)
「同じ時期に“ヨーヨーを扱っている会社(株式会社ディップス)を手伝ってほしい”とお誘いをいただいて、大学在学中に仕事としてヨーヨーを始めたのも、ヨーヨーにのめり込むきっかけになりました。4か月くらいの間にハイパーヨーヨーを始めてオリバーさんと出会って……朝から晩までヨーヨーのことしか考えていませんでした。人生で一番濃い時期だったと思います」
――長谷川さんは一度、一般企業に入社されていますよね。そのままディップスへ入社しなかったのには何か理由が?
「オリバーさんと出会ったときにはすでに内定をもらっていたので、1回就職しました。ところが僕が就職したタイミングはハイパーヨーヨーブーム真っただ中。一般企業に就職したものの、休日には百貨店などの店頭でヨーヨーのパフォーマンスをしていました。そんな中“やっぱり自分はヨーヨーと関わって生きていたい”という思いが強くなり、自分の気持ちに逆らい続けることは難しいと感じたんです。そう思ってからは早かったですね。入社後約1か月で退職してディップスに入社しました」
ヨーヨーの魅力は“コミュニケーションツール”であること
――今振り返ってみて、なぜそこまでヨーヨーに魅せられたのだと感じますか?
「僕自身、これまで“ヨーヨーはコミュニケーションツール”と広めてきたのですが、まさにそこが魅力だと思います。ハイパーヨーヨーが流行(はや)りはじめたときって、新しい遊びだからスタートラインがみんな同じだったんです。大人も子どもも世代に関係なく教え合って、ほめ合う関係性になれていたんですよね。自然とコミュニケーションが取れる上にスキルが上がっていく楽しさを味わえたのは僕にとって大きなことでした」
――ヨーヨーを共通言語にして輪が広がっていくことに魅力を感じていたんですね。
「子どものころから大人数で遊ぶより一人遊びが好きで、基本的にはヨーヨーも一人で追求する遊び。でもハイパーヨーヨーは海外から入ってきた文化だから、少しノリが違って。自分が習得した技を友達に見せて盛り上がって自然と輪が広がっていくんですよ。
また、ヨーヨーがきっかけで英語が話せるようになったのもコミュニケーションツールであると思ったひとつの理由です。ヨーヨーでハワイに行くことになったとき、コミュニケーションを取らざるをえないから、ロクに話せなかった英語もどんどん話せるようになった。ハイパーヨーヨーとの出会いで自分の性格まで変わりましたね(笑)」
――遊びや趣味のままヨーヨーを続けていくこともできたと思うのですが、そうではなく仕事にしたのは、そういったヨーヨーの魅力を広めたいと思ったからですか?
「当時これほどヨーヨーにハマっていた大人って僕くらいしかいなかったので、それをみんなに伝えていきたいという責任感がありました。ヨーヨーの将来を考えている子どもはいませんでしたし、ハイパーヨーヨーブーム以前も何度かヨーヨーブームがあったものの、文化として断絶を繰り返していましたから」
――たしかに、70年代のコカ・コーラヨーヨーブームや、80年代の『スケバン刑事』を発端としたヨーヨーブームも一度は去っていたわけですもんね。
「99%の子どもは大人になったらヨーヨーをやめてしまうのが当たり前でしたからね。でもオリバーさんは“大人になってから始めたんだから、ブームに関係なくずっとヨーヨーを続けてほしい”と言ってくれて。ディップス就職後はアメリカにあるオリバーさんの家にホームステイしながらヨーヨーを学んだんですよ。アメリカで見たヨーヨーの世界は日本にないものだったから、自分たちで初めからコミュニティをつくっていこうと。そこからヨーヨーの練習会を全国に広めたり、全国大会を開催したり、合宿をしたりと、活動を始めていきました」
オンラインショップから世界大会をかなえた『スピンギア』
――『ヨーヨーショップ スピンギア』を立ち上げたのも同じタイミングですか?
「1997年からディップスで働き、6年後の2003年にオンラインショップとしてスピンギアを立ち上げました」
――実店舗を構えたのはいつ頃でしょう。
「2006年ですね。“中野ブロードウェイに空きがあるから出てみないか?”と声をかけてもらったのがきっかけです。当時はすでにヨーヨーブームが終わっていたので、実店舗が成り立つとは思っていなかったのですが、思いのほか人が集まったんですよ。それまではヨーヨーって、月〜金は練習して土日にイベントで交流する週末の遊びだったけど、実店舗があることで月〜金も交流したい人が遊びに来てくれた。ヨーヨーでコミュニケーションを取れる場所が、もっと必要だと気づきました」
――中野ブロードウェイでコミュニケーションの場が構築されていた中、2011年に秋葉原へ移転していますよね。
「ちょうど秋葉原に『AKIBAカルチャーズゾーン』というビルが建設されるタイミングで、サブカルの聖地である秋葉原にいつかお店を出してみたかったこと、“10年続けたらサブカルチャーに、20年続けたら文化の入り口に立てるのではないか”と思っていたことから、秋葉原という広いエリアでヨーヨーを発信し続ければもっと多くの人に知ってもらえるかもしれない。そんな思いで秋葉原への移転を決めました」
――秋葉原に移転してみて、いかがでしたか?
「移転してすぐ、カルチャーズゾーンの目の前にあるベルサール秋葉原で“いつかヨーヨーの世界大会をやりたい”と思ったんです。その目標に向けて地元の人たちと関係をつくり、2015年に実現できました。海外20か国以上、2000人以上が集まり、キャパオーバーするほどの盛り上がりで。聖地的な感じでスピンギアにも足を運んでくれる人がいたので、大成功だったと感じています」
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25年間にわたり、ヨーヨーに魅せられ、ヨーヨーの普及と発展のために取り組んできた長谷川さん。次回インタビューでは、長谷川さんが運営する『スピンギア高円寺店』の移転秘話と、ヨーヨーを通して成し遂げたい夢に迫ります。
(取材・文/阿部 裕華、編集/FM中西)
◎長谷川さんTwitter→https://twitter.com/taka_yoyo