劇団☆新感線、ナイロン100℃、蜷川幸雄、野田秀樹、栗山民也など、日本の演劇界をリードする劇団や有名演出家の舞台に数多く出演し、コメディからシリアスな演技までこなす女優・明星真由美(みょうせい・まゆみ)さん。近年は舞台のみならず、映画やテレビ『イチケイのカラス』(フジテレビ系)への出演など、幅広く活動されています。
2022年7月7日に東京・渋谷のBunkamuraシアターコクーンで幕を開けた舞台『ザ・ウェルキン』では、実力派ぞろいのキャストたちの中で、死刑判決に関わる陪審員を好演中の明星さん。舞台にかける思いを、ご自身の半生を振り返りながら語ってもらいました。
舞台女優のルーツは「妄想」と遠足のバスで歌ったJ-POP
──出演中の舞台『ザ・ウェルキン』は、どのようなストーリーですか?
「18世紀イギリスのとある町で、少女を殺したカップルが裁判にかけられるんです。男性はすぐ死刑になるのですが、女性は“妊娠している”と主張。もし本当に妊娠していたら死刑は免れるので、その真偽を確かめるため、12人の女性陪審員が集められます。はたして妊娠は真実なのか、陪審員たちが慎重に審議を進めていく中で……というのがストーリーの骨子です。
選ばれた陪審員には出産経験者が多い中で、私が演じるヘレンという女性は子どもが1人もいません。だけど妊娠の回数だけは多く、8年間で12回も流産していて、陪審員の集まりに居心地の悪さを感じいてる、という役どころです」
──難しそうに思える役ですが、演じるときに意識していることはありますか?
「最初に脚本で読んだときの感覚っていうのを、ずっと忘れないようにしています。そのときの衝撃を思い浮かべて演じながら、“お客さまはどんなふうに観てくださるのかな”っていうことが、いつもすごく気になっていますね」
──子どものころから人前に立つのが好きなタイプでしたか?
「昔も今も本当は、人前で何かすることって苦手なんです。ただ、妄想をするのが大好きな子どもでした。寝る前にひとりであれこれ考える時間がすごく大事でしたね。例えば、住んでいた家が狭かったので、新聞にはさまれた広告などに描かれた広い家の間取り図を見ながら、“もっと大きな家に住んでいたら……”って思いを巡らせるんです。“この部屋にあの家具を置いて……”とか、現実的にはとても買えないアイテムの配置も考えたりするんですよ」
──頭の中で夢を描くのがお好きだったのですね。
「そうですね。でも中学のときの遠足で、バスの中でカラオケをする機会があって、そのときに流行(はや)りのJ-POPを歌ったら、ものすごくほめられたんです! あれが、人前で何かをして楽しいと思えた最初の出来事だったかなと。それから高校生のときにバンドを組んで、ボーカルとして観客の前で歌っていましたね。人気だったレベッカの曲とかをコピーして披露しましたよ」
鴻上尚史のエッセイに触発され、早大劇研の門をたたく
──バンド活動のすぐあとに、演劇を始められたのでしょうか。
「いいえ。実は、子どものころからずっとスピードスケートをやっていたので、高校卒業後はスポーツマネージメントを学ぶ専門学校に進学したんです。でも入ってみたら、思っていた環境とは違って、つまらなかったんですよね……。“ここにいるのは時間のムダなんじゃないか”って思って、半年でやめました」
──決断されるのが早いですよね。そのあとは、何をされていたのですか?
「学校をやめてから、プールの監視員をしたんですよ。監視員と言いつつも、すごく自由時間があったので、本を持ち込んで読むのが習慣になっていきました。そのときに、鴻上尚史さん(演劇サークル『早稲田大学演劇研究会』出身の劇作家)のエッセイを読んだのが、私の演劇人生の入り口なんです」
──文章を通して演劇に興味を持ち始めたのですね。
「その本を読み進めるうちに、“演劇というジャンルなら、私の妄想をシェアできるような面白い人たちがたくさんいるのかな”と思ったのがきっかけでした。私は大阪出身なのですが、上京したいと言い出した友達についていくかたちで、東京に来ました」
──思い立ってからの行動力がありますよね。
「それだけが私の取りえと言いますか(笑)。そこで、早稲田大学の演劇研究会(以下、劇研)にまず行ってみたんですよ。そうしたら早稲田の学生じゃなくても入れるということがわかったので、すぐに入部しました」
やめさせようと厳しくされるも、“見いだされているのだ”と食らいつく
──早稲田の劇研は厳しいということで有名ですが、実際にどうでしたか?
「すごかったですよ。大変すぎて白目をむくくらい(笑)。体力づくりのためにマラソンから始まって、サーキットみたいなことをするんですよ。入部したのが夏前だったので、汗だくで部室に帰ってきては、男女関係なく水道の水を頭からジャーってかぶるような、過酷な現場でしたね。“いったい、どこの運動部なんだろう”みたいな(笑)」
──演劇の練習はどのように行われていましたか?
「当時の劇研のルールとして、新入部員はその年の8月に新人試演会をやったあと、本入会するという流れがあったんです。試演会までのあいだは、『エチューダー』と呼ばれる劇研3年目の人間が新人の面倒をみるんですよ。私は6月に劇研の門をたたくのですが、ちょうど新人を訓練している真っ最中でした。みんな4月から稽古を始めているので、自分はそうとう遅い入部だったんですね。それと、劇研が厳しいと言われている理由のひとつに、“縦社会だから”ということがあって……」
──(笑)。はい、よく聞きますね。
「新人試演会の内容がイマイチだと、終わったあとにエチューダーが先輩たちからいろいろと批判されるんです。当時のエチューダーは、遅れて入ってきて、すでに周りと差がある私に対して、(試演会で足を引っ張られたら困るから)“やめさせよう”って思っていたらしいんですよ。だから、ことさら厳しくされる。でも、私はそれを“自分が演劇に向いているから見いだされたんだ”と勘違いしていたので(笑)、どんなつらい目にあっても、食らいついていったんですよ」
──明星さんのガッツと前向きさが伝わってきます。そこから、晴れて劇研の劇団に入られるのですね。
「当時、劇研には『PickWick』という劇団があって、そこから『東京オレンジ』(堺雅人が看板俳優として活躍した劇団)が分離したんです。私のエチューダーとなってくれたのは、『東京オレンジ』主宰の横山さん(演出家の横山仁一)でした。でも、私はその2つではなく、ちょうど旗揚げをするタイミングだった『双数姉妹』(小池竹見主宰・1990年創設)に参加しました。東京オレンジとは、お互いの公演を手伝い合ったし、合同公演もありましたし、そういう意味ではすごく近い存在でしたね」
厳しい劇研で看板女優としてやってこられた理由は?
──劇研時代の活動で印象に残っていることはありますか?
「劇研では“とにかくテンションを高く持って舞台に上がれ”って言われるんです。即興演劇が主だったので、テンションを上げて真っ白になって、その場でどれだけ面白いことを言えるかが重要。だから、訓練として、一発芸を連発させられて(笑)。本番に生きるからと、何度も何度も“そうじゃない”、“まだ違う”って言われながら、何十回も一発芸をやらされる。そんな現場でした」
──まさに『双数姉妹』では、エチュードと呼ばれる即興劇から作品を作る点が特徴でしたが、のちにこの劇団以外で学んだお芝居とでは、どういう部分が違っていましたか?
「双数姉妹では、(主宰の)小池竹見さんが次の作品のテーマを持ってきて、それを俳優たちがエチュードで立ち上げていきながら台本に書き起こす、という流れがメインでした。どうしても、即興でどう面白いことをやるかとか、いかに変な人物をやるかという部分に注力しがちだったので、特定の人物をじっくり演じるっていうことは、やってこなかった。なので外部の公演に出ると“どうしようかな”って、ちょっと苦労する時期がありましたね」
──演技方法の違いが、1998年に劇団を退団された原因だったりされるのでしょうか。
「エチュードは時に、ただ台本を演じるだけでは行き得ないところまで表現することができる。だから、展開の膨らみがものすごくありましたし、とても面白い取り組みだと思っています。でも当時はやっぱり、がっつり台本がある舞台をやりたいなっていう気持ちもあったので、退団することを決めましたね」
──明星さんは、『双数姉妹』の看板女優として約8年間、在籍されていました。厳しいと言われる劇研で演劇を続けられ、また、看板女優と謳(うた)われるほど輝けた理由は何だと思いますか?
「自分の中に“諦めない”という精神と、“いじめられても、いじめにすら気づかず前向きにとらえる”っていう性分があるおかげでしょうか。私、どこに行っても“自分は残るな……”っていう感じがあって。例えば以前、英語を勉強しようと学校に通ったら、ものすごく恐ろしい先生だったんですよ。最初は20人いた生徒が5人しか残らなかったけれど、やっぱり私はちゃんと残っていたんですよね。
だから、厳しい方が性に合っているというか(笑)。逆に生ぬるいところだと、時間がもったいないなと思ってしまう。振り返れば、専門学校も退屈でやめましたが、“厳しいから”、“苦しいから”という理由で何かをやめたことは、今まで一度もなかったと思う。それが私の特徴なのかもしれません」
氣志團と“運命の出会い”をはたし、マネージャーに応募
──『双数姉妹』を退団したあと、劇団☆新感線や劇団カムカムミニキーナ、NODA・MAP、ナイロン100℃など、そうそうたる劇団の舞台に出演しながら演技の幅を広げていった明星さん。劇研のころから変わらず夢中になれる女優業を休業してまで、氣志團のマネージャーを務められていた時期がありますよね。
「ははは。そうですね。2000年ごろだったと思うんですが、鳥肌実さんという芸人さんに“面白いグループと一緒にやってるから見にきてよ”と誘われて行ってみたのが最初です。もう、見た瞬間に射抜かれたというか、“なんだ、これは!”っていう衝撃がすごかったんです」
──氣志團のパフォーマンスのどの部分に、もっとも惹かれたんでしょうか。
「すごく“演劇的”だったんですよね。彼らの“リアル”はどこにあるのだろう、本当はどんな人たちなんだろう、って興味がわいてきて、ステージを何回か見に行ったんです。でも、“これはちょっと、裏側まで見ないと気がすまないな”って思ったのが、スタッフに応募したきっかけですね」
──メンバーの素顔への興味から、スタッフになられたのですか?
「そうです。当時、ライブで配られていたチラシの端っこに、“スタッフ募集”って書いてあった。そこから応募したら、翔さん(綾小路翔。團長かつメインボーカル)ご本人から連絡がきたんです。下北沢の喫茶店で面接をしたんですが、翔さんは学ランで来ていました」
──さっそく、インパクト大ですね(笑)。
「向こうは取材の帰りだったみたいですね。当時の氣志團には1人もスタッフがいなくて、メンバーがライブチケットのもぎりまでしていた。私も最初は女優をやめるつもりはなかったので、そういったもぎりとか、ライブのお手伝いくらいはできれば、と思って始めました。しばらくすると作業が広がって、ライブ『氣志團現象』(2001年7月1日、渋谷ON AIR WESTにて開催)では演出のお手伝いも始まり、私の友人を呼んでバックダンサーをしてもらったりもしました」
──気づいたら、お手伝いだけの範疇(はんちゅう)を超えているような気がしますが……。
「“いつだって全力”が私のいいところなんですけれど(笑)、やっぱり依頼されると、あらゆる作業に全力投球していましたね。スタッフを始めて約1か月で、いくつかのレコード会社から氣志團に“デビューしませんか”っていうオファーが来たんです。契約するにあたって、翔さんが出した条件が2つあって、1つは“学ランを新調してください”、2つめは、“メンバー以外に1人、スタッフを一緒に入れてください”っていう。それが私だったんです」
──なんと! 信頼されていたのですね。氣志團のマネージャー業が本格的になっていく中、女優業との兼業については迷われましたか?
「これはもう、両方は無理だなっていうのがわかっていました。女優を続けるという選択肢は、そのときはあまり考えなかったですね」
──お聞きしていると、興味・関心があることに一心に取り組まれるタイプだと思いました。
「そうなんですよ! 大きな船が今、まさに出ようとしている。そこに自分が乗るか、乗らないかってなったら、“乗らない”っていう選択肢は生まれませんでした」
──そこから、女優業を休業して氣志團マネージャーとして邁進(まいしん)されていくのですね。
「女優としては、KERAさん(劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチ)の作品『すべての犬は天国へ行く』(劇団『ナイロン100℃』2001年初演)が、私の“演劇第1章”の最後の公演です。そこから休業しました。この公演は、氣志團のメンバーも見にきてくれたんですよ」
厳しい現場に負けず前向きに成長し、「気になる」「やりたい」と興味がわいたことに対して、とにかく全力で向き合う明星さん。インタビュー第2弾では、氣志團のマネージャーとして駆け抜けた4年間について、女優業に復帰して覚えた舞台に上がることへの恐怖、そして“家”が導いた結婚など、人生のターニングポイントや今後の展望について、じっくり語っていただきます。
(取材・文/池守りぜね)
【PROFILE】
明星真由美(みょうせい・まゆみ) ◎1970年、大阪府生まれ。早稲田大学演劇研究会や小池竹見が主宰を務める劇団『双数姉妹』で演劇を学んだのち独立し、ナイロン100℃や劇団☆新感線をはじめとする実力派の舞台に数多く出演。2001年に女優業を休業し氣志團のマネージャーを務めるも、2005年に女優復帰。以後、舞台に限らず数々のテレビドラマや映画で好演を重ねる。昨今では『イチケイのカラス』(フジテレビ系)や映画『エキストロ!』に出演したほか、2022年7〜8月には吉田羊、大原櫻子との共演舞台『ザ・ウェルキン』に出演。
シス・カンパニー公演『ザ・ウェルキン』
作:ルーシー・カークウッド/翻訳:徐賀世子/演出:加藤拓也
【東京公演】2022年7月7日(木)~7月31日(日) Bunkamuraシアターコクーンにて
【大阪公演】2022年8月3日(水)~8月7日(日) 森ノ宮ピロティホールにて
◎公式サイト→https://www.siscompany.com/welkin/