’16年から’20年まで、5年連続で『R-1ぐらんぷり』(現・R-1グランプリ/関西テレビ系)のファイナリストに名を連ねた、ピン芸人・おいでやす小田さん。近年は、『M-1グランプリ2020』(テレビ朝日系)に、こがけんさんとの即席ユニット「おいでやすこが」として出場。激戦の末に準優勝を果たしたことでも知られています。
そんな小田さんは、現在バラエティだけでなくドラマにも出演。M-1から2年がたち“賞レースファイナリスト”という肩書が薄れても、なお活動の幅を広げています。その活躍の裏には、どんな“戦略”や“運命”が隠れているのでしょうか……? インタビュー記事前編となる今回は、小田さんが芸人を志してから、’20年のM-1準優勝にいたるまでのサクセスストーリーを伺い、“ピン芸人・おいでやす小田”の源泉をたどります。
魔が差して──大学をやめてNSCに入りました
──小田さんは、どういった経緯でお笑い芸人を目指したのでしょうか?
「100パーセント、ダウンタウンさんの影響です。僕は子どものころ、4つ上の姉から影響を受けることが多かったんですけど当時、姉が好きだったのが、関西ローカルで放送されていたダウンタウンさんの番組だったんです。例えば、『かざあなダウンタウン』『生生生生ダウンタウン』とか。それを一緒に見るようになって、自然とハマっていきました。小学校6年生くらいのころやったと思います」
──出身は関西圏(京都)ですし、お笑いは身近にあったでしょうね。
「まあそうですね。でも、ダウンタウンさんの番組以外はあんまり見ていなかったんです。同級生は『すんげー! Best10』(※同時期に関西で放送されていた人気バラエティ)とかも見ていたみたいですけど、僕はそっちの話にはあんまり入られへん感じでした。もう、ダウンタウンさんばっかりでしたね」
──ダウンタウンさんのどんなところがお好きだったんですか?
「最近気づいたことなんですけど、僕ダウンタウンさんが好きなのはもちろんなんですけど、ダウンタウンファミリーが大好きなんですよ。浜田(雅功)さんがお父さん、松本(人志)さんがお母さんで、今田(耕司)さんと東野(幸治)さんと木村(祐一)さんたちが子どもで……っていう、関係性とかバランスとか、世界観が大好きやったんです。このメンバーが出ている番組は、夢中になって見ていました」
──その結果、自分でも芸人になろうと。
「はい。高校に入ったあたりから考えるようになりました。けど、今から考えたらただの絵空事でしたね。高3の冬に、同級生と卒業旅行でキャンプに行ったんですけど、そこでみんなで寝転がって星を見る時間があって。そのときに初めて芸人になった自分をリアルに想像したんですけど、とんでもない恐怖が襲いかかってきたんですよ。生活できる保証がまったくない仕事なのに、その覚悟がなかったんでしょうね。“こんなにヤワな精神では無理やろう”と思ったんで、とりあえず大学進学を選択しました。ただ結局、大学は3年でやめてNSCに入るんですけど」
──なぜ、中退してまでNSCに?
「こればっかりは、魔が差したとしかいえないです。大学の午前の授業を終えて昼休みにひとりで公園に行ったら、ふと“もうイヤ! 大学行きたくない!”ってなったんですよ。で、そのまま午後の授業をサボって、大阪にある難波のNSCにパンフレットを取りに行って。家に帰って親に言いました」
──完全に衝動ですね。親御さんは何といっていましたか?
「母親は“卒業してからでええのに”と言っていましたけど、反対はされなかったです。親父も結構厳しい人やったんですけど、すんなり“いいよ”と。まあ、嫌がっていましたけどね。“後期の学費、払ったとこやのに……”って。申し訳ないことをしたなと思いました」
──ともあれ、翌春に大阪のNSCに入学したんですね。
「そうです。半年くらいあったので、その間バイトをしてNSCに通うお金を貯めてから入学しました。ダウンタウンさんに憧れていたんで、NSCで相方を探して、漫才……というか、『ガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ系)のフリートークのようなネタができたらいいなと思っていました。当時はまだ、自分の力量がわかっていなかったから、漫才もフリートークも大喜利も、何でもできると思っていました」
──「何でもできる」という考えが崩れたのは、いつごろですか?
「NSCを卒業して、西森(現モンスターエンジン・西森洋一)とコンビを組んだころですかね。西森のボケの発想力とか、面白さとか雰囲気を見て、“初めて自分より面白い人に出会った”と衝撃を受けたんです。ツッコミになったのもこのころですね」
──ただ、その後もコンビを組んでは解散、を繰り返して最終的にピン芸人の道を選びます。それはどういうきっかけだったのでしょう?
「コンビを組むと、相方の嫌なところばっかり目につくんですよ。西森の次に、奥重っていう男(現吉本新喜劇・奥重敦史)と4年半コンビを組んでいましたけど、ネタのときの立ち居振る舞いとか雰囲気が気になってしょうがなかった。だから、(奥重との)解散のタイミングでピンになろう決めたんです。誰かとおったら、いろんなことをその人のせいにして一生終えてしまう。だったら、自分で全部責任を取れるピン芸人になろうと思ったんです」
松本さんに認めてもらえた。その事実が僕を支えてくれました
──ピン芸人になったのは、’08年ごろとのこと。当時はどんな活動をしていましたか?
「そもそも、コンビを組んでいたときから吉本の劇場メンバーにはなれていないんですよ。劇場メンバーになるにはオーディションを勝ち抜かないといけないんですけど、なかなか結果を残せなかったんで。主戦場は、何百という芸人が出ていたインディーズライブでした。学園祭の延長みたいな雰囲気で、プロ意識もそんなにない人たちばかりで。僕もそこまで深く考えることなくピン芸人になりました。なったものの、ピンでやっていけるとはまったく思っていなかったです」
──ともあれ、『R-1ぐらんぷり』では’10年以降、毎年準決勝に進んでいましたよね。
「うーん……実は、それが一番しんどかったんです。1、2回戦で負けるなら“ムラがあるのかな”とか“ネタチョイスが悪かったのかな”と思えるんですけど、毎回準決勝で落ちると“実力不足”というほんまの壁を感じるんですよ。俺はもうここまでの芸人なんかなという状況が6年も続いたんで、さすがにきつくなりました。’16年には、“これで最後にしよう”と思っていました」
──そんな’16年に、初の決勝進出を果たしました。勝因は何だったのでしょう?
「もう最後だと覚悟を決めていたんで、それまでとネタ作りに向かう姿勢がちょっと違ったんです。最後だと思ったらめちゃくちゃこだわりたくなって、それまで周りのスタッフさんに気を遣って言えなかったことも、“これ、用意できますか”“音はこうしたい”と、たくさんわがままをいったんですよ。そうしてネタを作っていく過程が、すごく楽しかったんです」
──それまで以上にピュアにお笑いに向き合った結果ですね。モチベーションは変わりましたか?
「準決勝が終わった時点で“続けよう”という気持ちになっていました。初めて準決勝で目いっぱい努力できたから、“まだいけるわ”って思えたんですよ」
──息を吹き返したんですね。
「なにより、’16年のR-1決勝でボロ負けした翌々日に、『ワイドナショー』(フジテレビ系)で、松本さんが“ネタは、おいでやす小田がいちばん面白かった”と言ってくれたんです。それがすごくうれしかったんですよ。多分、R-1で優勝してもこれ以上にうれしいことはないと思います。松本さんに認めてもらえた。その事実が僕を支えてくれました」
──ずっと憧れていた人ですもんね。
「あの日のことは今でもはっきり覚えています。パチンコの営業で司会をした日に、タクシーの中で何の気なしにツイッターを開いて、『おいでやす小田』でエゴサーチしたんです。そうしたら、“松本人志 おいでやす小田がネタで一番”という記事が目に入ったんですよ。それを見た瞬間に体温が上がって、“ガン!”と血が逆流したような感じがしました。21年くらい芸人をやっていますけど、一番うれしかったことといえばそれですね。
しかも、このころから笑福亭鶴瓶さんが連絡をくれたり、藤山直美さんが“面白い”って言ってくれたりして、超一流の人が自分の名前を出してくれるようになったんです。自分では“自信がついた”なんて思わないですけど、“この人らの目が間違っている訳はない”とは思っていました」
ピン芸人の僕は“漫才主体の劇場”であおりを受けた
──決勝進出以降、仕事量に変化はありましたか?
「多少は増えました。でも、増えたから見えるようになったこともあって。漫才師とピン芸人の間に壁があると、はっきり気づいたのもこのころです。大阪って、やっぱり漫才文化が色濃いんです。お客さんは漫才を見たいから、営業に行くのも“ピン芸人”じゃなくて“漫才師”。ピン芸人を出すくらいなら、無名の若手でも漫才師を出したいんです。結局、僕が呼ばれる機会はあまりなかったです」
──だから、決勝に進出しても爆発的には仕事が増えないんですね。
「それに、僕が出ていた劇場の名前が『5upよしもと』から『よしもと漫才劇場』に変わりましたからね。当初は本当に“漫才”主体の劇場で、コントとピンは1組ずつしか出られなかったし、別枠みたいな扱いを受けていました。“さあ、ここからピン芸人のネタを見ていただきましょう”みたいな、言わんでええことも言われていましたね。今やすごい劇場になってるし、M-1チャンピオンも輩出しているくらいやし、その考え自体が間違ってるとは思わないんです。ただ、僕はあおりを受けた人間ではあります」
──ちなみに、当時の収入は?
「R-1の決勝に出てからも、5〜7万円くらいやったと思います。僕だけじゃないですよ? 当時の関西のピン芸人はだいたいそんな感じでした」
──その状況だと、東京進出しようという考えも自然に出てきそうですね。
「そうですね。’17年くらいから本格的に考えるようになって、’18年の春に東京に来ました。この選択は正解やったと思います。最初の3か月は、劇場のスケジュールが決まっているから出番はいっさいなくてバイト三昧(ざんまい)やったんですけど、それ以降は劇場にも出られるようになったし、配信番組の司会の仕事も結構あって、関西にいたときよりは仕事が増えました。ギリギリの生活ではあったんですけど、半年たったころには芸人の仕事だけで食っていけるようになりましたね」
『M-1』決勝の前からすでにあった“予兆”
──そんな小田さんのさらなる転機といえば、おいでやすこがで準優勝を果たした’20年の『M-1』になるかと思うのですが、小田さん自身はどう感じていますか?
「転機と呼べる日を1日挙げるとしたら、もちろん2020年12月20日(※M-1決勝当日)だと思います。もうすべてが変わったので。だけど、周りの芸人には“その少し前から予兆はあった”といわれるんですよ」
──予兆、ですか。
「それが、11月の『ワイドナショー』です。次の年のR-1から芸歴制限を設けることになったというニュースを取り上げることになって、参加資格を失った僕が急きょ『ワイドナショー』に出演することになったんです」
──確か、翌年の『R-1』開催を発表する会見が開かれたんですよね。そこで芸歴制限を設けると明かされ、会見場にいた小田さんが自暴自棄になっていました。その光景が、『ワイドナショー』のスタッフさんの目に留まったと。
「収録当日は、ネタもやらせてもらいました。ルミネの合間やったんでリハもできなかったんですけど、それでもできそうなネタを選んだら、結構ウケたんですよ。周りの芸人からも“すごかった”と言われたくらいやったんですけど、その3日後にM-1の準決勝やったんです。これが、奇跡的なタイミングだったんですよね」
──『R-1』の会見と『ワイドナショー』の勢いそのままに臨めますもんね。
「これが1回戦の前やったら効力が薄れるし、準決勝の後やったら意味ないしという、ほんまにベストなタイミングでした。“R-1終わった人”、“それに対してワーワーいってた人”というイメージのついた僕が準決勝で登場して、“僕ら、漫才しか残ってません”というつかみを言ったら、バーン!ウケました。そこから勢いに乗れた感じですね」
──お客さんの気持ちをつかんだんですね。
「そうですね。賞レース好きのお客さんってやっぱりいて、M-1を見ている人はR-1もちゃんと見ているんです。そのお客さんの後押しもあったと思います。あとは、当時のマネージャーの力も大きいです。東京来てすぐについてくれたマネージャーなんですけど、その人がいろんな仕事を持ってきてくれたからすぐにバイトをやめられたんです。本当に感謝しているんですけど、’20年の5月ぐらいに1回僕の担当から離れたんですよ。でも11月にまた戻ってきてくれたんです」
──もともとついてくれていたマネージャーさんが。そうして『M-1』準優勝を獲得したと思うと、運も味方してくれていたんだと感じますね。
「今思うとですけどね。当時の僕らは、何も思ってなかったです。M-1記念受験のつもりやったし、決勝の次の日からはまた日常に戻ると思ってたんで」
──でも、実際にはメディア露出が増えましたよね。
「その年はコロナもあってスケジュールが真っ白やったんですけど、一気に真っ黒になりました。状況が180度逆転した感じです。’21年はメディアばっかりで、マヂラブ(マヂカルラブリー)と同率でブレイク芸人1位にもならせてもらいました」
運命に導かれ、ブレイクした小田さん。インタビュー後編では、息の長い芸人になる秘けつを自己分析してもらったほか、ドラマの現場に挑む姿勢なども語ってもらいました。
(取材・文/松本まゆげ、編集/本間美帆)
【PROFILE】おいでやす小田 1978年生まれ、京都府京都市出身。NSC大阪23期。’16年から5年連続で『R-1ぐらんぷり』決勝進出を果たした実力派ピン芸人。近年は俳優業も盛んで、NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』や、『石子と羽男―そんなコトで訴えます?―』(TBS系)などに出演している。11月2日には、初のエッセイ『僕はどうしても捨てられない。』(ワニブックス)発売。さらに11月3日には、ルミネtheよしもとにて単独ライブを開催する。
YouTube→おいでやす小田とこがけんの[おいでやすこがチャンネル]、 Twitter→@oideyasuoda、Instagram→@oideyasuoda
《出演情報》
おいでやす小田ベストネタライブ「オーバースロー」
□日時
公演:2022年11月3日(木)19:00開場 19:30開演
オンライン配信:2022年11月3日(木)19:00開場 19:30配信開始 21:00配信終了
□会場
ルミネtheよしもと
□料金
前売:3000円
当日:3500円
オンライン配信チケット:1800円