渋谷と横浜を結ぶ東急電鉄の動脈、東横線。
今では渋谷から東京メトロを経て東武・西武に乗り入れ、来年3月の東急新横浜線開業で相鉄への直通も始まる。乗り換えなしで池袋や埼玉と横浜を行き来できる路線だが、もともとは東急のターミナル渋谷と横浜を結ぶために建設された。鉄軌道業分社化以前の社名である「東京急行電鉄」が示すように、戦前から長く速達列車(※)として走ってきたのが同線の急行だ。
だが、「急行」という割には停車駅が多く、乗換駅でもない停車駅があったりする。さらに、現在は通過している駅にも昔は停まっていた? こんな素朴な疑問をもとにリサーチを進めると、沿線の隠れた歴史が浮き彫りになってきた。
※主要な駅だけに停まり、目的地へ早く到着する列車。特急・急行・快速など
渋谷から菊名まで1駅ずつしか通過しない急行
東急東横線は、渋谷から横浜まで21駅、全長24.2キロの路線だ。急行は終日運行され、特急などとともに速達列車として機能している。
ところが、途中の19駅のうち停車駅は9駅と、約半分の駅に停まる(中目黒・学芸大学・自由が丘・田園調布・多摩川・武蔵小杉・日吉・綱島・菊名)。渋谷から横浜/元町・中華街方面に乗ると、菊名までは2駅以上連続して通過する区間がない。まるでつり合いを取るかのように菊名から横浜まで途中4駅を通過して横浜に着くという極端さだ。
この中でちょっと不思議に思える駅が、渋谷を出て2駅目の学芸大学。乗換路線もなく、ホームは1面2線のシンプルなつくりで駅を出ると一般的な住宅街が広がる。中目黒・自由が丘・田園調布・多摩川・武蔵小杉・日吉・菊名は他線との乗換駅で、綱島は高架下などにバスターミナルがあり、乗降人員8万1372人(2021年度・東急統計)だが、学芸大学はさらに少なく6万2867人。駅名の由来になった東京学芸大学も1964(昭和39)年に小金井市に移転している。
東横線の急行の歴史を調べると、さらに興味深い事実が浮かび上がる。『東京横浜電鉄沿革史』(1943年刊行)によると急行運転開始が1935(昭和10)年、このころの停車駅は碑文谷(現在の学芸大学)・自由が丘・田園調布・新丸子・日吉・綱島温泉(現・綱島)・妙蓮寺・反町・横浜なのだ。横浜線が通る菊名を通過して妙蓮寺や反町に停まっていた? にわかに信じがたい話だが、いったいどういう背景があったのだろう。
目黒区の行政の中心地に。そして学校が移転してくる
東急電鉄によれば、社内に現存している東横線のダイヤは1943(昭和18)年のものが最古で、当時の停車駅の選定理由も正確な資料が残っていないためわからないという。わかっている限りでの最古の停車駅データも、前出の『東京横浜電鉄沿革史』のものと同じだ。
では、戦前の時点でなぜそんな停車駅になったか。『地図で読み解く東急沿線』(三才ブックス)の監修者で、横浜都市発展記念館研究員の岡田直さんに見解を聞くことができた。まず学芸大学駅については、
「当時は碑文谷駅の名称で、1936(昭和11)年、駅の近くに東京市目黒区の区役所が置かれます。目黒区やそれまでの碑衾(ひぶすま)町の中心地だったことによるのではないでしょうか」と推測する。
学芸大学駅が碑文谷駅として開業したのは1927(昭和2)年8月。当時、沿線は「荏原(えばら)郡」に属していたが、1932(昭和7)年10月1日に東京市に編入される。
1936(昭和11)年4月に学芸大学の前身の青山師範学校が青山から世田谷区下馬に移り、学校の最寄り駅になったことで駅名を「青山師範駅」に改称。青山師範学校の移転地は現在の東京学芸大学付属高校がある場所だ。同年、現在の目黒区中央町二丁目に目黒区役所庁舎が完成し、こちらも青山師範駅が最寄り駅となる。学校の改称(※)にともなって駅名は「第一師範駅」(1943年)〜「学芸大学駅」(1952年)と変わってきたが、戦前の名残で急行停車は続いたようだ。目黒区役所は2003(平成15)年に中目黒駅が最寄りの上目黒二丁目に移転するまで当地にあった。
※1943年、青山師範学校と女子師範学校が統合して東京第一師範学校に。1949年、学制改革により東京学芸大学が発足した
同じ目黒区にあっても、中目黒は1964(昭和39)年に地下鉄日比谷線が開通して乗換駅になるまで急行停車駅から外れていた。今では中目黒のほうが特急も停車し乗降人員も多く、逆転現象が起こっているが、かつてはこんな歴史があった。
歓楽街だった新丸子、駅すらなかった武蔵小杉
では、新丸子駅・反町駅・妙蓮寺駅はどうか。前出の岡田さんはまず「新丸子と反町は駅の近くに花街や遊郭があったためで間違いないと思います」と考える。
多摩川沿いの新丸子界隈は、戦前は一大歓楽街だった。1924(大正13)年に料亭「丸子園」が開業すると、周辺には置屋・料理屋・待合が立ち並ぶ色街となる。昭和初期の『東横・目蒲電車沿線案内』にも丸子園やダンスホールが描かれ、対岸の多摩川園とともに行楽地だった様子がうかがえる。しかし、1945(昭和20)年のたび重なる川崎空襲で駅一帯も被災し多くの家屋が焼失したことで色街は衰退に向かう(『川崎空襲・戦災の記録』)。近年までラブホテルが数軒残っていたものの、武蔵小杉とともにマンションと住宅が林立する街に変わった。
ちなみに、すっかり川崎のメガシティになった武蔵小杉は戦前は南武線(1944年の国有化までは民営の南武鉄道)の駅があるだけで、東横線は南武鉄道との交点を素通りしていた。
戦時色が濃くなった1939(昭和14)年に現行駅よりも元住吉駅寄りに東横線の工業都市駅が開業。周辺の軍需工場への通勤輸送のためだった。続いて1945(昭和20)年に南武線との交点に武蔵小杉駅が開業、しかし1946(昭和21)年12月31日までは定期券客だけが朝夕ラッシュ時に乗降できる仮駅扱いで、1953(昭和28)年に旧・武蔵小杉駅と工業都市駅を統合してようやく現在の場所の武蔵小杉駅になった。
歓楽街だった新丸子に対し、影も形もなかった武蔵小杉。80年の歴史は2つの駅の立ち位置をまるで逆転させてしまった。武蔵小杉から歩いて行ける新丸子だが、駅から多摩川側へ歩くとちょっとした飲み屋が点在しているところが往時をしのばせる。
反町の両隣に“幻の駅”があった
横浜市神奈川区の反町には1900(明治33)年に海側から遊郭が移転し、以後、昭和初期まで妓楼の数は20数軒を数えたと『神奈川区誌』(1977年刊行)には記されている。しかし同誌によると戦中の軍による徴用、戦災と進駐軍の接収で姿を消し、戦後には住宅地につくり替えられていったという。
また、戦前は反町と東白楽の間に「新太田町駅」、反町と横浜の間に「神奈川駅」と2つの駅があった。戦災と、駅の距離が近すぎるために両駅は戦後まもなく廃駅になるが、2つ駅が多かったと考えると、当時の東横線の急行も「停まりすぎ」とは一概に言えないかもしれない。
最後に気になるのは妙蓮寺駅と菊名駅。岡田さんは「横浜・桜木町方面へ向かう乗客を、横浜線に乗り換えさせないため菊名は通過させ、また、当時は妙蓮寺駅のほうが、周辺の住宅地化が進んでいて乗降客数が多かったため、代わりに妙蓮寺駅に急行を停車させた可能性があります」と推測した。
前出の沿線案内を見ると、菊名には東急の分譲地が、妙蓮寺には駅の目の前の妙蓮寺と当時は行楽地だった菊名池が描かれている(名前は菊名池だが、最寄り駅は妙蓮寺)。菊名と妙蓮寺、どちらかに停車駅を絞るとなって妙蓮寺が選ばれたのだろうか。
戦後には東海道新幹線開業に伴って横浜線と新幹線の接続駅として菊名の隣に新横浜駅が開業、新幹線アクセスも担い始めた菊名は現在、大型のキャリーバッグを持った旅行客もよく利用する(それも2023年3月の東急新横浜線開業で激減しそうだが……)。
新丸子・反町・妙蓮寺が急行の停車駅から外れ、菊名と武蔵小杉が加わった時期は残念ながら突き止められなかった。ただ「かつて行楽施設があって栄えていた駅」と、「鉄道の乗換駅になって人が行き来する駅」の性格の違いが停車駅の変遷に影響したようだ。
他方で、学芸大学が急行停車駅から陥落しなかったのは利用客の数ゆえと思われる。都内で乗客も多く、2000年代まで目黒区役所最寄り駅だった学芸大学に比べると、横浜側の“末端”の駅は明暗が分かれてしまったのも、やむをえないだろう。
2000(平成12)年に目蒲線が目黒線と東急多摩川線に分離したため、東横線と東急多摩川線の乗換のために多摩川が急行停車駅に昇格。これでさらに急行停車駅が増えたものの、2001(平成13)年に停車駅を絞った特急が登場。2004(平成16)年に横浜~桜木町間が廃止になり、代わりにみなとみらい線の元町・中華街駅まで直通運転が始まって、東横線は現在の21駅の顔ぶれになった。特急は現在、中目黒・自由が丘・武蔵小杉・菊名と大胆に途中の停車駅を絞っているが、自由が丘以外の3駅は87年前の急行デビュー時は素通りされていた。奇遇にも3駅とも他社線との乗換駅で、他社とつながってネットワークを担う重みを示唆しているかのよう。
郊外のちょっと猥雑な場所も通る行楽路線から、通勤・通学・都市間輸送と活躍する大動脈に。東横線のダイヤの変遷には、こんな沿線の歴史の移ろいも影響していた。
(取材・文/大宮高史)