最近、ネットや雑誌などでタイドラマや音楽など、タイエンタメの話題を目にすることが増えてきた。
ことの始まりは新型コロナウイルスの感染拡大が始まった2020年。日本で緊急事態宣言が発出されたころに、YouTubeを通してタイBLドラマ『2gether』の存在が広まり、“タイ沼”にハマる人が続出した。
この盛り上がりは日本だけでなく、韓国や中国などアジア各国にも広がっていった。昨年8月には、タイのテレビ局GMMTV所属の若手俳優11人が来日し、横浜でイベントを開催。その後も海外渡航緩和に伴い、タイ人俳優などが続々と来日している。
そんな彼らの言葉をファンに直接伝える役割を担っているのが、タイ語通訳者だ。タイ語通訳・翻訳者の高杉美和さんは、この道24年目のプロ。現在は、映画監督や俳優の通訳、映画字幕の監修など、文化芸能系の仕事をメインに行っているが、通訳としてのスタートラインは、ビジネス系の仕事だった。
高杉さんがどうしてタイ語通訳・翻訳の道を選び、スキルを磨いていったのか? そして、ここ数年大きな盛り上がりを見せる、タイエンタメの世界を、通訳者という立場から語ってもらった。
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キャリアのスタートはタイ人研修生のための通訳
高杉さんが初めてタイ語に触れたのは、東京外国語大学インドシナ語学科タイ語専攻に入学してからのこと。もともと、タイ語や通訳という仕事に興味があったわけではなかったという。
「偏差値と相談したのと、当時、よくタイの話題を目にしていたので、なんとなく選びました。人がやらない言語をやりたいというのもありましたね。だって、英語なんて勝ち目ないですし。あと、私は食いしん坊なので、珍しい国の食べ物を食べてみたいというのもありました」
大学卒業後はバンコクの日系企業に現地採用で入社し、タイで5年間暮らした。1999年に日本に帰国し、スーパーでパンやケーキのデモ販売のアルバイトをしながら、タイ語通訳者としてのキャリアをスタートさせた。初仕事は、日本の工場に研修に来たタイ人研修生のための通訳だった。
「工場で技術を身につけるための研修だったので、会話は技術用語ばかり。私はエンジニアではないので、その用語の意味も中身も全然わかっていません。
でも、私はその仕事を通して、通訳者は内容をすべてわかっていなくても、研修生と工場の人がお互いにつながればそれでいい。だから、自分は“言葉を渡す係”なんだということに気づきました。
お昼休みに研修生と工場の人が雑談するときの通訳は、本当は自分の仕事の範疇(はんちゅう)じゃなかったけど、私は通訳が好きだったので、雑談も全部訳していました。でも、そういったお節介な部分がすべて血や肉になったと思います」
タイで大ヒット、佐賀を舞台にしたタイドラマ製作に携わる
高杉さんがタイに住んでいたころ、タイ映画を見に行くのが好きだったという。いつか、タイの文化芸能関係の仕事に携わりたいと思っていたものの、当時の日本ではそういったニーズは皆無だった。
「2000年くらいに『アタック・ナンバーハーフ』や、『マッハ!』といったタイ映画が日本でも公開されて話題になりましたが、国際映画祭でもタイ映画がたまに上映されるくらいでした」
生活を支える仕事は企業案件のものがメインだったが、国際映画祭の通訳や字幕監修などの仕事には細々と携わっていた。2015年には、佐賀を舞台にしたタイドラマ『STAY Saga 〜わたしが恋した佐賀〜』(全4話)の撮影中の通訳や翻訳、世話係などを一手に引き受けることとなった。
このドラマ、日本ではあまり知られていないが、タイでは大ヒットした。タイで「佐賀に行きたい!」という佐賀ファンが多く誕生し、佐賀を訪れる観光客も大幅に増えたという。
「佐賀県のフィルム・コミッションが誘致したドラマのロケなのですが、私にも声がかかったので一緒に誘致して、撮影が決まったら通訳、脚本やスケジュール表の翻訳、日本語のセリフの発音指導など、なんでもやりました。
撮影が終わった深夜も翻訳作業をしていたので、昼間に撮影しているときにカメラの後ろで半分寝ながら通訳していたら、撮影監督に呆(あき)れられました(笑)」
この撮影がきっかけで、佐賀でタイフェスティバルが開催されたり、佐賀を訪れるタイ人観光客を地元の人たちがボランティアでガイドしたり、と交流が始まったという。交流団体「サワディー佐賀」が発足し、高杉さんもメンバーのひとりとして参加している。
「このドラマを見て、佐賀大学に留学したというタイ人留学生も結構いまして、私はときどき、若い人が使うタイ語をオンラインで教えてもらっています。常に新しい表現が出てくるから、アップデートしないと若い俳優さんの言葉がわからなくなってしまうこともあるんです」
例えば、「ティット(くっつく)」と「ロム(風)」という単語を重ねた「ティット・ロム」という表現がある。直訳すると「風がくっつく」ということになるが、これでは何のことだかわからない。
「ある俳優さんのインタビューで、“芸能の仕事はスカウトされたのがきっかけだったのですが、今は(ティット・ロム)なので、続けています”と言ったのですが、この単語は“楽しくなってきた”という意味なんです。
知らなかったら通訳できないわけで、若いタイ人に若者言葉を教えてもらう必要があるんです」
難解なタイ語を習得するコツとは
通訳・翻訳歴も20年を超え、自在にタイ語を操っているが、常に勉強や知識の吸収は必要だという高杉さん。同時通訳も行っているが、これもさまざまな通訳の現場で、独学で身につけた技術だという。
「映画祭で、監督が観客から直接質問を受け付けて答えることがよくあるのですが、このときに同時通訳のスキルが自然と身についていきました。例えば、観客が質問しているときに、発言を終えてから訳すよりも、聞きながら訳したほうが、時間が半分で済むわけです。
そのほうが、たくさんやりとりできて楽しいんじゃないかって、ここでもお節介な気持ちが働いて、同時通訳ができるようになっていったわけです」
タイ語は、独特なタイ文字に代表されるように、難解な言語のひとつといわれている。しかし、日本でタイドラマブームが起きたのをきっかけに、「タイ語を勉強したい!」と思う人が増えている。
以前は「タイが好き」「旅行でタイにハマった」「仕事でタイに行くから」といった理由でタイ語を学ぶ人が主流だったが、最近では一度もタイに行ったことがなくても、「タイドラマを見て」「タイ人俳優のSNSを理解したい」といった理由で、タイ語学校に通う人も少なくない。
「タイ語上達のコツは、タイ人が話すタイ語を、とにかくたくさん聞くこと。タイ語を勝手に自分で解釈しないこと。タイ語を勉強する人には、最初は日本人の先生をおすすめします。その先生もタイ語を習得するのに苦労した経験があるので、それを踏まえたうえで教えてもらえるからです。
タイ人の先生に教えてもらうのは、文法やタイ文字がある程度理解できるようになってからで十分です」
このようにタイ語の通訳・翻訳者として経験を積み重ねてきた高杉さんの仕事が、2020年に一変することに。タイドラマブームが日本に到来したからだ。
(取材・文/吉川明子、編集/本間美帆)
【PROFILE】
高杉美和(たかすぎ・みわ) タイ語通訳者・翻訳者・コーディネーター。タイのエンタメ領域を中心に、一般通訳を行う。撮影誘致コーディネーターとして、『STAY Saga 〜わたしが恋した佐賀〜』のドラマ制作に伴い、佐賀県への誘致に携わり、その他、東京オリンピック・パラリンピックの事前キャンプ誘致のコーディネート、現場通訳の仕事も行っている。