SNSに投稿した自身の絵が“バズった”ことからイラストレーターに。その後、23歳という若さで漫画家デビュー、3月10日には新刊『ミューズの真髄』の最終巻(3巻)が発売と、順風満帆に見える文野紋(ふみの・あや)さん(26)の人生ですが、彼女の味わった大きな挫折、まじめであるがゆえの苦悩は知られていません。ひと筋縄にはいかなかったこれまでの日々を、赤裸々に話していただきました。
漫画家になるとは思ってもみなかったけれど──
──さっそくですが、文野さんはどんな経緯で漫画家になったのですか?
東京藝大(東京藝術大学)に受からず浪人生活を送っていた2017年、アルバイト生活のかたわら、Twitterに自分が書いたイラストをアップしていたんです。そうしたら少しずつイラストのお仕事、小説の挿画の依頼をいただけるようになったのが始まりでした。
当時は今のようにSNSに自分の漫画を載せる人はあまりいなかったのですが、知り合いが漫画をアップしているのを見て自分も漫画を描き始めて載せてみると反響があり、少し長い漫画を描いてみたいなと思うようになりました。
それからオリジナル限定の同人誌即売会「コミティア」に出店をし始めて、同時進行で「月刊!スピリッツ賞」(小学館)に漫画を投稿したら佳作に選んでいただき、担当編集者がついて’19年から商業誌用の漫画も描くようになったんです。
漫画家になってからも出店していたコミティアで、今度はほかの雑誌『コミックビーム』(KADOKAWA)の編集長が私の漫画を読んで声をかけてくださり、同誌で『ミューズの真髄』という漫画の連載が始まりました。
──文野さんは漫画家の中でもまだ若く、輝かしい経歴に見えるのですが、もともとは油絵を学ぶために芸大合格を志していたとか。
はい。初めてTwitterにイラストだけでなく漫画を載せようと考えた理由も、友人がアップしていたのを見たことのほかに、芸大に二浪して3回目の受験も不合格で「これ以上は経済的にも浪人生活を続けられない」と感じたのがきっかけです。浪人時代は、毎朝アルバイトに行って日中に絵を描き、
一般的に漫画家さんは、自分の漫画をたくさんの人に読んでほしくてスタートする方がいちばん多いと思うのですが、私の場合はそうではなくて、出版社の方から依頼をいただいたから商業誌で漫画を描くようになったんです。
商業になると、いろんな方が関わってくださるので、「ただ楽しい」ではなくて、読者や関係者の方々の期待を裏切りたくないなと思っています。
絵がうまくなりたい一心でお金を貯めて画塾へ
──芸大を諦めるという、ある意味、挫折を経てからの漫画家デビューではあるけれど、今はご自身の漫画家人生と真摯(しんし)に向き合っているのが伝わってきます。
子どものころからまじめで完璧主義だったので、その性格も影響しているかもしれません。美術や体育、音楽なども含めたすべての授業で、できないことがあるのが嫌だと考える子どもでした。親に言われたからとかではなく、テスト前は自主的に家でたくさん勉強や練習をして挑んでいましたね。
初めてゼロから何かを創作したのは小学3年生くらいのころです。ふたつ年上の兄は読書が大好きな人だったので、お互いに小説を書いたあと、交換して読むということをしていました。
──そのころから美術を学びたいという気持ちがあったのですか?
中学2年生までは、まったく。ただ少年漫画が好きだったので、中学3年生くらいのとき、漫画を描いて投稿してみたことはあります。落選したとき、「漫画の背景がうまく描けない。私は絵がヘタだ」と思って、画塾に行こうと決意しました。中学生はまだ働けないので、高校1、2年生の長期休暇を利用してアルバイトでお金を貯め、2年生のときに、スケッチで背景を描くことなどが学べる画塾に通い始めました。
──16歳がアルバイト代で画塾に! 絵を描くことに対する熱意が感じられます。
とても強く「絵が上手になりたい」と願っていたのでアルバイトも頑張れました。
ただ、画塾は絵がうまくなりたいという一心だったので、美大や芸大を目指す気持ちはまだありませんでした。ほかの科目の勉強も好きだったので、将来どうなりたいか決めていない状態で通っていたのですが、画塾が終わるころに「絵を描くのにもっと時間を割きたいな」と思ったんです。
そこで講師の方にいろいろな美大・芸大を教えてもらい、興味が出て資料を取り寄せていると、油絵を専門にしたいって気持ちがどんどんあふれてきて。高3になる前に、画塾を辞めて美大予備校に通い始めました。
3度の受験で不合格「人生でいちばんの挫折を感じた」
──美術の世界を志すことに対して、ご家族からはどのような反応がありましたか?
「あなたは勉強が好きなのに、進路を美術に絞り込むのはもったいない。卒業後、就職は大丈夫?」と心配されました。それでも両親は、私のアルバイト代だけではまかなえない美大予備校の学費を出してくれたんです。両親には本当に感謝していて、’21年に出した短編集『呪いと性春 文野紋短編集』の印税で、学費を返しました。
ところが高校卒業後、東京藝大に不合格になり、そこから浪人時代が始まりました。
──英語とか数学とか、だいたいの科目は努力して勉強すれば報われることが多いですが、芸術は正解がない世界ですよね。
不合格だとわかったとき、熱意や努力だけではうまくいかないこともあるんだと痛感しました。その後の浪人時代はとても苦しいものでしたが、親しい友人ふたりと、お互いにつらいことを打ち明けてなぐさめ合っていました。
3回目の不合格で経済的にもう受験できないと思ったとき、それまでの20年の人生でいちばんの挫折を感じました。同時期にプライベートで人間関係が壊れる経験をしたこともあり、浪人時代は私のコンプレックスになりました。
世の中は努力だけではうまくいかないと痛感
──完璧主義だから、なおさらでしょうか?
そうですね。完璧主義の私がいろいろな勉強を一生懸命やってきたのは、どれもスムーズにできなかったからです。「なんでも一発でできた」とか「できなかったけど、周りは盛り上がったしいいや」と感じた経験がなかったので頑張っていました。
──完璧主義な自分をどのようにして受け入れるようになっていったのですか?
受け入れるというよりも、仕方がないから飲み込んだという感じです。
『ミューズの真髄』の作中にもありますが、感受性が豊かで絵を描くことだけが楽しいという友人を見ていると、やはり、その子が描く絵にもにじみ出てくるものがあって。例えば、写実的にデッサンすることは得意だったので、私のほうがうまいかもしれないけど、それが絵になるとあの子のほうが圧倒的に素晴らしいと、よく感じていました。
ただ、このことを言葉にすると、その現実がのしかかってくる気がして、思っていても言えない状態だったのですが、3回目の東京藝大受験に失敗して稼がないと生活できなくなったとき、完璧主義の自分をぐっと飲み込みました。
挫折した経験が漫画家としてのやりがいに
──東京藝術大学は日本で唯一の国立芸術大学で、十浪も珍しくない、ある意味、東大より難しい大学です。完璧主義だからこそ、自分に厳しかったのですね。
美術に限らず、子どものころから失敗続きで、うまくいっていないなと感じることがたくさんありましたね。
ただ、私と似た境遇の方から「こないだ二浪が決まりました。でも主人公に共感しながら頑張ります」と言っていただいたとき、「一生懸命描かないと」と、とても励まされました。
私が味わった挫折やコンプレックスは、私が描く人物たちや読者さんの中にもあって、「失敗した経験は無駄じゃなかった」と今は思えています。
◇ ◇ ◇
目指していた道が閉ざされたり、うまくいかないことが続いたりすると心が折れてしまう人もいる中で、新たな道を切り開き、コンプレックスも力に変えつつある文野さん。その生き方、そしてその経験をもとに描いた漫画に背中を押してもらえる方も多いことでしょう。インタビュー第2弾では、『ミューズの真髄』に込めた思いについて、さらに深く語っていただきます。
(取材・文/若林理央)
【PROFILE】
文野紋(ふみの・あや) ◎漫画家。1996年生まれ。2020年、読み切り『君の曖昧』が『月刊!スピリッツ』(小学館)に掲載され商業誌デビュー。’21年1月にはデビューから約1年という、新人としては異例のスピードで短編集『呪いと性春 文野紋短編集』(小学館)を上梓する。同年9月、『月刊コミックビーム』(KADOKAWA)で『ミューズの真髄』を連載開始し、’23年3月10日、最終巻が発売に。