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漫画・アニメ

父親の死に直面し30歳でOLから漫画家に転向、水谷緑さんが描く「人のこころ」と「精神医療」

SNSでの感想
水谷緑さん。どんな質問にも真摯に答えてくれた
目次
  • 自分がいいと感じたものを突きつめたい
  • 父を亡くし「好きなことをして生きなければ」と思った
  • 重症患者の気持ちに寄り添う「緩和ケア」の大事さを実感
  • 医療者に話を聞き漫画を描くうえで大切な「信頼関係」
  • 精神医療の現場で医療者たちが思っていること

 精神科やこころのケアを題材にした作品を数多く発表している、漫画家の水谷緑さん。現在は小学館の漫画誌『月刊!スピリッツ』で『こころのナース夜野さん』を連載しています。

 水谷さん自身は医療者ではありません。作品に登場する、医療に関する丁寧でこまやかな描写はすべて、綿密な取材が土台となって作られたものです。

 26歳で父親を亡くし、30歳で漫画家デビュー、32歳で初期乳がんの診断を受け手術──水谷さんは、医療者が病を患った人に対して行うこころのケアを、第三者である漫画家としてだけではなく、当事者や当事者の家族としても見つめてきました。そんな水谷さんに、精神科に興味をもったきっかけや人生のターニングポイントを伺いました。

自分がいいと感じたものを突きつめたい

──水谷さんが医療に興味を持ったきっかけを教えてください。

「弟が研修医として勤務した病院での、ちょっとした話を聞いて、“人間って面白いな、愛着がわくな”と感じ、その様子を漫画にしたいと思うようになりました。例えば、禁酒を命じられている患者さんが、実はお酒を飲んでいることを隠すために、あれこれうそをついてくるだとか、たわいもないエピソードなんですが、人間のダメなところを知れるのが興味深くて

──水谷さん自身は医療者ではないのですね。

「はい。当時、私は広告制作会社で働いていました。忙しい毎日だったのですが、アイデアを提案しても実現しないことがほとんどで、むなしい気持ちになることもあって。

 30歳が近づいたころ、“自分を認めてもらえるような何かをしたい”と強く思うようになって。そんなときに聞いたのが弟の話で、印象に残ったエピソードをもとに漫画『あたふた研修医やってます。』を描きデビューしました」

──デビュー後は漫画家と会社員を両立したのですか?

「会社がフレックスタイム制だったのと、土日に時間が作れたので、漫画を描きながら会社員として働きました。ただ、だんだん無理が生じてきたのと、個人的には世の中に必要なのかわからないものの広告を仕事として作らなければならないときもあることにジレンマを感じ、デビューから2年後に退職しました

──安定した職を手放すことに不安は?

「もちろんありましたが、当時はまだ30代になってすぐでしたし、“先のことは考えないようにしよう”、“自分がいいと感じたものを突きつめて描ける漫画家の仕事に専念しよう”と決意していましたね」

父を亡くし「好きなことをして生きなければ」と思った

──漫画家になりたいと思ったのはいつからですか?

「本格的に志したのは、広告制作会社で働いていたときに父親を亡くしたあとです。母が萩尾望都さん、大島弓子さん、山岸凉子さんといった少女漫画家の作品を持っていたので、私も小中学生のころから読み、少女漫画雑誌『りぼん』(集英社刊)も愛読していました。当時はお気に入りの漫画のキャラを描いたり、友だちとの交換日記に絵を入れたりしました。大学も漫画評論の講座がある学部を選んだのですが、漫画評論の先生の講義を受動的に聞くのが中心でしたね。ただ、“いつか漫画家に”とは漠然と思っていたのかもしれません」

──デビュー前、医療に興味を持ったきっかけは、弟さんからの話のほかにもありますか?

27歳のときに、がんで父が亡くなったことが大きかったです。“人は本当に死ぬんだな”と実感しました。

 そのあと、がむしゃらに仕事をしていて、大きな案件が終わった日、電車で男の人が身体を押してきたので、ひじ打ちをしてしまったんです。その瞬間、(こんなことをしてしまうなんて)“知らないうちに自分の心が病んでいるんじゃないか”と思いました。

 それと、父は亡くなったとき、まだ63歳でした。“自分には定年後の生活がなかった”と言っていたらしく、“父の代わりに好きなことをして生きていかなければ”と思い始め、本格的に漫画を描くようになりました

『こころのナース夜野さん』2巻より (C)水谷 緑/小学館『月刊!スピリッツ』連載中
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