“ベルばら”の愛称で親しまれる、池田理代子さんによる不朽の名作漫画『ベルサイユのばら』。フランス革命前から革命前期のベルサイユを舞台に、男装の麗人オスカルとフランス王妃マリー・アントワネットらの人生を鮮やかに描いたこの作品は、1972〜’73年に『週刊マーガレット』(集英社刊)で連載され、連載終了後も人気は衰えませんでした。さらに翌’74 年、宝塚歌劇団による舞台化が大成功。空前の“ベルばらブーム”を引き起こし、社会現象に。その後もアニメ化・映画化され、今なお広く愛される作品となっています。
’22年に50周年を迎えるにあたり、この9月17日から、「誕生50周年記念 ベルサイユのばら展ーベルばらは永遠にー」が東京・六本木で開催されます。そこでfumufumu newsでは、宝塚版『ベルサイユのばら』でオスカル役を演じ、ベルばらブームを築いた元星組・花組トップスターの安奈淳さんにインタビューを敢行。池田理代子さんへの思いや、宝塚現役時代のエピソード、30代からの闘病生活を通して見えてきたものについて、語っていただきました。
池田理代子さんの知識の深さに驚嘆。配役の変更を直談判してオスカル役に
池田理代子さんは、オーストリアの作家・ツヴァイクの伝記文学『マリー・アントワネット』を読んで、アントワネットが主人公の劇画(※)を描きたいと『ベルサイユのばら』の連載を始められたとのことですが、そのときは24歳の若さだったそうです。
(※ 描線が動的で、遠近のとり方や背景の描き方が写実的な漫画。筋立てのおもしろさや現実性を主眼とする)
当時、劇画のことはまったく知らず、オスカル役が決まってから初めて原作を手に取りました。私は漫画を読んで育ってこなかったのですが、この作品を通して漫画のおもしろさを知り、とりこになりました。「『ベルサイユのばら』のすべてが宝塚にぴったりだ」とも感じ、感激しましたね。
あとから池田さんと私は同い年だと知って、「すばらしい才能の持ち主だ」と感心しました。当時は(池田さんの)お宅にも伺い、いろいろな話をしましたが、知識の深さに驚き、尊敬の念を抱いていました。
初演の『ベルサイユのばら』は、月組の榛名由梨さんがオスカルを演じて大ヒットしたのですが、再演で『ベルサイユのばら〜アンドレとオスカル〜』を上演することになり、榛名さんがオスカルを、私がアンドレ(※)を演じることになっていたんです。でも、榛名さんのほうが私より身長も高いし、2年上級生ということもある。私は、男役とはいえ、華奢なほうでしたので、女役も多く演じていました。
(※ 原作でも人気の高い、細身で長身の男性キャラクター。オスカルの幼なじみにして彼女の従者であり、オスカルに強い恋心を抱いている)
それまで劇団に対して自分から、役についての希望を述べたことはなかったのですが、このときばかりは「(今の配役は)どう見てもビジュアル的にふさわしくないのでは」と演出の植田紳爾先生に申し上げたんです。そうしたら、「それもそうやな」と交代が決定し、私がオスカル役、榛名さんがアンドレ役になったんですよね。それ以降オスカルは、私の宝塚人生のなかで、いちばん多く演じた役になりました。
オスカルは女性でありながら男として育てられて、途中から女としての意識が目覚める。今考えると、当時、こんなキャラクターを架空の人物として創ったという池田先生の発想が秀逸です。オスカルは、女性の社会進出を促すきっかけとも言えるアイコンですよね。
オスカルを演じる中で、役作りに悩むことはありませんでした。私は、女性でありながら男役をやっていたわけですから、男役と女性が融合した役をやる、ということは、自分のなかではごく自然なこと。オスカルのような性別を超えた役は、特別に掘り下げたりしなくても、すんなり入っていけました。だから、「感性のまま芝居を進めればいい」と考えていたので、役を研究したという記憶がないんです。脚本が、場面場面で、そのときの感情が湧き上がってくるように書かれていることもあり、台本どおりに演じるだけで自然とオスカルになりきることができました。
舞台では、マリー・アントワネット役の上原まりさんはじめ、周りのみなさんの演技がすばらしくて、演じる上でとても支えられました。
また、時代劇スターだった長谷川一夫先生が演出の指導にいらしていたのですが、私は宝塚に在籍しているあいだに、長谷川先生の相手役として帝国劇場でご一緒していたこともあり、たいへん可愛がっていただいた思い出があります。
ベルばらと言えば、ファンの方々がすぐ思い起こす有名なシーンのひとつに、“今宵一夜”がありますよね。オスカルがアンドレに「今宵一夜、アンドレ・グランディエの妻と呼ばれたいのです」と告白する。その場面のとき、長谷川先生がオスカルとアンドレ用に考えた、伝説的なポーズがあるんです。歌舞伎のような型を重視したもので、2人とも身体を反らして触れ合っており、現実的にはほぼありえない不自然な姿勢なのですが、客席から見るとこれほど美しいシーンはない。宝塚ならではの“夢”を表現しています。
ファンからは熱烈コールのほか“過激な洗礼”も。入団のきっかけは両親の希望
『ベルサイユのばら』を上演し始めたころ、まだ世間的には「宝塚って何?」というような時代でしたが、『ベルばら』が地方巡業で各地を回ったことで宝塚を知った、という方も多く、 また、NHKで舞台を放送したことで、一気に日本全国に広まりましたね。
あっという間にファンの方が増えていき、全国各地、どこに行っても超満員でした。もちろん、ありがたいことではありましたが、劇団員はみんな満員電車に揺られ、荷物を持って次の劇場に向かい、毎日のように公演していましたから、ヘトヘトでしたよ。地方巡業のスケジュール表をもらったら、巻き紙みたいになっていて、その公演数の多さに気が遠くなったこともありました。
このころには「第1期ベルばらブーム」が来ていたので、楽屋口には熱狂的なファンの方々が集まっていて、怖いくらいでした(笑)。今では、ファンのみなさんは整然と並んでスターを待っていますが、当時はそういう秩序もありませんでした。楽屋から出た瞬間、「キャー!」という歓声とともに群がってくるので、掃除のおばさんに変装して出ていったりしていましたね。ホテルにもファンの方々が押し寄せてきて、下から「顔を見せて!」と叫ばれたりと、たいへんな騒ぎでした。
愛してくれる方々がいる一方で、ファンレターの中にカミソリが入っていたり、新聞の文字を切り貼りし「生身の人間がオスカルをやるな」と書かれた、劇画ファンからの脅迫めいた手紙が届いたりもしました。
そんな過激な経験もした宝塚人生ですが、もともと両親が宝塚のファンで、子どものころから家族で観に行っていたんです。娯楽があまりなかった時代ですから、そのころ住んでいた大阪・箕面から30分ほど阪急電車に揺られ、宝塚劇場に行くのは一大イベントで、観劇の日が決まるとカレンダーに丸をつけるほどワクワクしていました。
母も幼少期から宝塚に入ることを希望していたのですが、親に反対されて諦めた、という事情もあり、わが家では「女の子が生まれたら宝塚に入れる」と両親のあいだで決められていたんです。
家族みんなが“押せ押せムード”で、バレエとピアノを習い、受験準備は小学校4年生くらいから始めました。絵が好きだったので、(宝塚に行くよりも)絵画の勉強をしたい、と思ったこともあったのですが、今となっては「親の言うことを聞いて宝塚を受けてよかった」と感謝しています。「1回受けてダメだったら、あとはない」と言われていましたが、中学で宝塚音楽学校を受験して、一発合格できました。
自分がトップスターになったことには「気づかなかった」、30歳で華麗に退団
でも、せっかく入ったものの怠け者で、嫌いな授業のときは抜け出して、よく楽屋番のおじちゃんに、劇場の3階席に入れてもらって観劇していました。昔は、授業をサボるなんてあたりまえだったんですよ(笑)。近くの動物園や遊園地に遊びに行ったり、お弁当を持ってボートに乗ったりもしていました。宝塚というと厳しいイメージがありますが、あのころは、のんびりした時代でした。
今とは違い、トップスター就任時の特別なお披露目などもなかったんです。自分がトップになったことにも、しばらく気がつきませんでした。主演が続いて、「あ、トップなんだ」と、なんとなくわかってきたくらい。そんな感じでぼーっとしていたので、下級生にはよく助けてもらいました。オスカルのカツラも、今のように作りがよくなかったので、下級生が毎日オスカル風の巻き髪にして用意してくれていました。
ひとつの公演が終わったら次の公演の稽古、合間にテレビ出演もあったりと、とにかく忙しかったですね。みんなで京都に行ってグルメ巡りをするとか、食べることだけが楽しみでした。
そんな中で、「30歳になったら退団しよう」と決めていました。細くて体力がありませんでしたので、娘役を持ち上げて踊る、リフトも重くて大変でした。ちょうどタイミングよく、『風とともに去りぬ』のスカーレット役がきたところで、「私も風とともに去ろう」と、劇団に退団の相談をしたんです。
退団公演は、半年以上にわたって休みが1日もなくて、疲労困ぱいの日々でした。1日3回公演に加え 、最後の3日間は「さよならショー」をやることになり、極限まで痩せました。退団のごあいさつは、みなさん、涙、涙になることが多いものの、私の場合は、申し訳ないのですが解放感でいっぱいでした。
30代から闘病生活が始まり、50代で生死をさまよう。その中で見えたものとは
退団後、1か月ほどで舞台に出演し、それからも舞台をメインに仕事を続けていたのですが、30代で肝臓を悪くして、真っ黄色の顔で必死に舞台に立っていたんです。とうとう倒れてしまったのが、53歳のとき。激しいむくみと呼吸困難に襲われて緊急入院し、難病のSLE(全身性エリテマトーデス。膠原病のひとつ)を発症しました。そこから60歳までは闘病生活が続き、あるときには「危篤です」と言われてお葬式の準備もしたくらいです。
でも一度、死の淵に立ってからは、怖いものがなくなりました。死を恐れてもいないし、「この世は修業」と思って生きています。ですから命ある限りは、一生懸命、生をまっとうしないと。今は、薬で体調を保っていて、元気に過ごしています。
’21年には、『70過ぎたら生き方もファッションもシンプルなほど輝けると知った』(主婦の友社刊)というファッションのコーディネートブックを出す機会がありました。Instagramでときどき、コーディネート写真を出していたら、フォロワーが一気に増え、出版のお話をいただいたんです。子どものころから洋服は母の手作りで、おしゃれに組み合わせるのが得意だったので、うれしかったですね。50代の闘病後、薬の副作用でうつになり、手持ちの服をほとんどすべて処分してしまったのですが、最近では本当に好きな、心地いい服だけを少しずつ買い足して、着回しながらコーディネートを楽しんでいます。
今は心臓疾患もあり、「長期の舞台はやめてください」と主治医に言われているので、歌をメインに活動しています。私から歌をとったら、もう何も残らない。難病を乗り越えて知った、自分なりの“幸せのあり方”、それは、生きている今を楽しみ、「シンプルに生きる」ということなのです。
(取材・文/Miki D’Angelo Yamashita)
【PROFILE】
安奈淳(あんな・じゅん) ◎1947年、大阪府生まれ。’65年、宝塚歌劇団に入団。’70年、鳳蘭と並ぶ星組男役トップスターとなる。とりわけ『ベルサイユのばら』で演じたオスカルは大きな当たり役で、第1期ベルばらブームの立役者のひとりとなった。’78年に退団後は『屋根の上のヴァイオリン弾き』『レ・ミゼラブル』『王様と私』『サウンド・オブ・ミュージック』などに出演。近年はライブやコンサートでも活躍中。
「誕生50周年記念 ベルサイユのばら展 ーベルばらは永遠にー」
連載開始から50年を迎えることを記念して開催され、初登場も含めた貴重な原画を、池田理代子さんの作品への想いや言葉を交えながら展示。さらに、宝塚歌劇のコーナーやテレビアニメ、懐かしのグッズ、現在にも続く展開をたどるなど、多彩な切り口で不朽の名作の軌跡と全貌に迫ります──。
◎期間: 2022年9月17日(土)〜11月20日(日)
◎会場: 東京シティビュー(東京都港区六本木 6-10-1 六本木ヒルズ森タワー52階)
※展覧会の詳細やチケット情報等は公式サイトへ
【展覧会公式サイト】https://verbaraten.com/
【展覧会公式SNS】https://twitter.com/verbaraten (@verbaraten)