今年5月には『Billboard Live TOKYO』でのライブを大成功に収め、精力的な音楽活動を続けているシンガーソングライターの泉谷しげる(75)。年齢を感じさせないパフォーマンスは、見るものを圧倒させています。
インタビュー後編は、泉谷さんのライフワークともいえる被災者救済支援の募金活動や、知られざる映像制作のエピソード、そして50代以上へのメッセージなどたっぷりとお聞きしました。
【*前編→泉谷しげる、身体の弱い少年がフォークシンガーに。“バケモノ”を目指した若き日々と、忌野清志郎さんとの思い出】
被災者だって娯楽を楽しんでもいい。売名と言われても募金活動
──1993年の『北海道南西沖地震被災者救援』から、募金活動を目的としたライブをされています。
「俺は偽善だと言われたけれど、救済活動を続けてきた。いろんなところに行ってきたけれど、最初はみんなにすごく文句を言われたな。俺はね、“震災に遭ったことなんて忘れちまえ”って言っているんだよ。それは震災にかかわらなくてすんだ人間がどうするべきか考えることであって、当事者はつらいことは忘れられるものなら忘れたほうがいい。“被災者は聖人ではないのだから、パチンコでも風俗でも行けばいいじゃないか”って言ったら、むちゃくちゃ怒られた。だってみんな、本当は被災者になりたくてなっているわけじゃないんだからね」
──確かに日常生活が変わってしまっても、なるべくならば同じような生活が送れるように補償するべきですよね。
「そう。だから補償金を受け取るためにじっとして悲しい顔をしなきゃならないなんてことはないんだよ。そういうことを言っていたら、行政側とケンカになっちゃった(笑)。だから行政が主催するようなイベントには呼ばれなくなっちゃったんだ」
──募金活動を始めたきっかけはあったのですか?
「募金活動っていうのは、なかば強制的にやらないと無理だと思う。“みなさんの都合を考えてやってください”っていうのんきな状況じゃない。はっきり言えば、被災者のために“金よこせ”でしょう。善意は強制ですよ! しかも俺たちは売名行為なんだから。だって有名じゃないと、みんな来てくれない。“売名の何が悪いんだ!”って開き直れるくらいの神経じゃないと。俺は恩着せがましいからね(笑)」
──自由に活動されているイメージですが、逆に泉谷さんがやりたくなかった仕事はありましたか?
「ほとんどがそうですよ(笑)。バラエティー番組なんて、面倒くさいし。自分は歌だけ歌っていたいな。映画は好きだからいいんだけど、やりたいのかって言われたら、そうでもないんだよね……。舞台挨拶なんてしたくないし。だから“歌以外の仕事はバイトだ”って言っているんです」
バイト感覚のつもりの俳優業。その理由は……
──以前、お孫さんに使う資金のために、役者の仕事をしていると話されていた記憶があります。
「そのとおりですね。バイトのつもりだから、台本だって深く読み込んでいくわけではない。だってさ、やっとセリフを覚えたのに、ズバッとカットされることもあるんですよ(笑)。だから監督には“このセリフは使うのか、使わないのか決めてくれ”って聞くんです。使うって言われたら、細かく全部覚える。だって一生懸命覚えていったのに、カットされたら時間の無駄でしょ(笑)」
──泉谷さんの自然体の演技は『Dr.コトー診療所』(フジテレビ系)や『女王の教室』(日本テレビ系)など、印象に残る役柄も多いです。
「『Dr.コトー』は何十回もリハをやらせるから、嫌でもセリフを覚えたよ(笑)。予算がたくさんあった時代は、1日に1シーンしか撮らないから、リハーサルを何度もできたよね。今は予算がないから、事前に何度も練習して覚えていって、早く撮り終わらないといけない。だから画面の中も、なんだかせかせかしている。俺には1テイクしかないんだから。2テイクを撮るときには別料金だぞって言っているよ(笑)」
映像作品のために自宅を爆破! やりすぎて家族に泣かれたことも
──THE PRIVATESのデビュー曲『君が好きだから』(’87年)では、PVの監督もされていますね。当時、音楽雑誌のインタビューで延原さん(THE PRIVATESのボーカル・延原達治)が死ぬほど走らされたと語っていたのを覚えています。
「ミュージシャンって、撮影ってすぐに終わるって思っているんだよ(笑)。だからすごく時間がかかるって言う。でも映画とかをやっている人間にとっては、すぐに撮れるものではないわけ。だっていろんな角度から撮らなくちゃいけないからね。俺が新人バンドのプロモーションにかかわったのは、若いバンドに愛情を持ちたかったから。俺たちも大人に逆らっていたのだけれど、同時に理解してくれる大人もいたから世の中に出てこられた。若い芽は摘みたいっていう気持ちもあるけれど(笑)、まずはみんなに紹介したい。そういう気持ちからなんです」
──ちなみに監督をした映画の撮影で、家の一部を爆破したというのは本当ですか?
「『デスパウダー』(’86年)かな。フォーライフ時代の印税で建てた家だったんだけれど、軽く爆破させようとしたらスタッフが火薬の量を間違えちゃった(笑)。家の中でバーンッてなってしまって、家族から泣きながら“やめてー!!”って言われました。大ひんしゅくを買いましたよ」
──泉谷さんは、なんでも全力なのですね。
「ほかにも倉庫を借りて爆破したときも、スタッフが“派手にやりましょう”って言うから任せたら、(火薬の)量を間違えちゃって大きく爆発したんだよね。でも映画を作るって、半分犯罪みたいなものだからね(笑)」
──石井聰亙(現・石井岳龍)監督の作品で美術を担当したのは、どういういきさつでしたか?
「ぴあフィルムフェスティバルに入選した『突撃!博多愚連隊』(’78年)を観たら、すごいのがいるって感銘を受けて。そこから『狂い咲きサンダーロード』(’80年)や『爆裂都市』(’82年)にもかかわらせてもらった。当時は、若いからみんな怖いもの知らずだったよね。自主制作だから、お金がない。でもすごいエネルギーにあふれていた」
──今は、YouTubeでPVを公開したり、サブスクリプションで手軽に音楽も聴けるようになりましたが、当時と比べると熱量が減ったように感じますか?
「それは違うと思う。スマホだろうがなんだろうが、便利なことに越したことはない。でもスマホが全部やってくれるわけではないからね。なんだかんだで、音楽が好きなやつらが求めているのは原始的な感動だと思うんです。それはスマホではできない。みんなスマホで観られるから簡単って思っているけれど、YouTuberだって大変ですよ。みんなやっていないから、ラクに稼げると思ってしまう。実際はYouTuberって、再生数を上げるために努力をしているわけじゃない。それに疲れて、闇バイトみたいな広告をクリックしちゃうんじゃないかなって思うよ(笑)」
お客から元気をもらうのではなく、与える!
──フォーライフ・レコードを設立したり、映画を撮ったりしたパワーはどこから出てきたと思いますか?
「あれは高度成長期だったからできたんですよ。世の中が儲かっていたから、貧乏ができる。自分が儲かっていなくても、隣にいるやつが儲かっていれば“金を貸してくれ”って言えばいい(笑)。今は世の中が貧乏だから、何かを作り出すのが難しいと思う。みんなスマホばかり見ているのは金がないからだよ」
──よくライブで「お客から元気をもらうんじゃない。俺が与える」とおっしゃっていますがそのパワーの源はなんですか。
「だって金を取っておいて、客から元気をもらってどうすんだよ!(笑)。おかしいだろそれじゃあ。こっちは金取った以上のことをやるからね。これが『バケモノ理論』なんです」
──さきほどから、何度もおっしゃっている「バケモノ」につながるのですね(前編参照)。
「俺にとってのエンターテイメントは、大変なときにこそ元気を出せる人じゃなければいけないって思う。いちいち落ち込んでいても仕方ない。だから異常体質になるために身体を鍛えないといけない。嫌な現実に“どけ、邪魔だ”って押し返せるようにしないといけない。弱いからこそ、鍛えるんですよ」
50代に向けて泉谷しげるからのメッセージ!
──ももいろクローバーZ主催の『ももいろ歌合戦』に出演されたり、共演された橋本環奈さんからはライブ会場に花を贈られています。若い世代に好かれるのはどうしてだと思いますか。
「知らねぇよ。彼女たちに態度は変えていないのだからさ。でも嬉しいよね(笑)。最初はとんでもない人って思われたかもしれないけれど、彼女たちの期待にちゃんと応えているんじゃないのかな。それで、俺から50代向けに言うと……って、なんで俺がテーマを戻してあげなきゃいけないの!」
──確かに、50代の読者に向けた取材でしたね。
「女性のことはわからないから男性に向けて言うと、50代はいちばん迷うとき。体力的にも衰退するし、“次はどうしよう?”って迷う、中途半端なときだと思う。ここまで覚えてきたギターの腕前をこれ以上、上げるか上げないかという段階に来た。18歳のときに女じゃなくてギターを選んだように、自分のやりたいことを選ぶか、社会の道具になるか考える。仕事はだいたいやりきってしまっているだろうし、次はいつ引退しようという進退を考えるときが近づいてきている」
──人生の終盤の岐路に差しかかると。
「ちょっと落ち着いてくる時期だよね。きれいに辞めていくのを選ぶのか、次の仕事をやるのか。あとこれは俺の持論だけれど、やっぱり年を取るのは嫌だと思う。50代って、それがいちばん悩ましいときで、“どうやったら若くいられるのか”って余計なことを考えてしまう。肉体は衰えていくのに若いままでいたい。だから精神のバランスも悪くなっていく」
──心身ともに、変化を受け入れていく時期なのですね。
「若いときは社会のせいにできたけれど、もう経験値があるから社会のせいにもできない。だから社会が悪いって言えるのは、20代や30代までだよ。50代にもなって言っていたら残念だよね。そういう人は老けていくと思う。さらに周りの若い連中からは年寄り扱いされる。そうすると自信がなくなっていく。俺も50代のころは、変な神経痛になったりした。それは“自分はどうすればいいんだろう?”と、普通のみんなと同じ悩みを抱えていたんだと思う」
──泉谷さんは、どのように克服されたのですか。
「60歳になったら“来やがれ”ですよ。老いよ来い! どれだけ老いられるだろうって覚悟を持ったら、楽になれました。でも普通の人はマネできないと思う」
──ではどうすれば、前向きに過ごせると思いますか?
「そこは頑張って自分を愛してほしいと思う。他人を愛せるなら、自分も愛せるだろうって思うよ。でも50代はそういう意味では、自分のことを好きになれなくていちばん迷っているかもしれない。もしかしたら、“俺の人生は女房子どものためだけに過ごしてきた”なんていう愚痴とか言っているんじゃないかな。でも普通の生活こそが大事なんですよ。俺はバケモノだから、異常体質でいられるけれどね。俺の歌に出てくる人間は普通の人々だから。普通の負け犬のほうだけれど……」
──でも泉谷さんの歌の本質は、負けていないと思います。
「負けたことがあるから、“負けてはならぬ”っていう気持ちがあるんです。負けたことを、ちゃんと自覚していることが大事。よし、次は勝つぞっていう気持ちが必要なんですよ」
──泉谷さん自身は、いつも勝ちに行っているように見えます。
「もちろんですよ! 当たり前じゃないですか。どんな場合でも全力でやって、勝ちにいきますよ」
──失礼ながら、泉谷さんは75歳ですが「後期高齢者」という呼び方をどう思いますか。
「後期高齢者のほとんどが不摂生だからね(笑)。元気がなくなるとすぐ不安なふりしてさ。糖尿になって尿酸値がどうだとかばかり言っている。ただの不摂生だろうが! って思う。おれはステージに立つことを選んでいるから、お酒も煙草もやめたからね」
──常に歌い続けることを第一に考えているのですね。
「俺はみんなから“何、この人”って思われるような、バケモノになりたかったんです。それが自分にとってのステータス。バケモノとして歌い続けることを目標としているし、それがお金になったらもっと幸せだなっていう考えなんです。自分が好きなことがお金になるんだったらさ、それがいちばんだよね」
◇ ◇ ◇
一言、一言に魂がこもってパワフルな泉谷さん。「元気はもらうのではなく、与えるほう」という言葉のとおり、フムニュー編集部一同、前向きな気持ちになった取材でした。
(取材・文/池守りぜね、編集/小新井知子)
《PROFILE》
泉谷しげる(いずみや・しげる)
1948年青森県生まれ。シンガーソングライター、俳優。’71年にライブアルバム『泉谷しげる登場』でフォークシンガーとしてデビュー。『春夏秋冬』『光と影』『’80のバラッド』『吠えるバラッド』など多くのアルバム、楽曲を発表。俳優としてドラマ『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』『金曜日の妻たちへ』『Dr.コトー診療所』、映画『Fukushima 50』『いのちの停車場』などに出演。著書の新刊『キャラは自分で作る どんな時代になっても生きるチカラを』(幻冬者)が発売中。
【ライブスケジュール】
8月26日(土)京都・磔磔「全力ライブスペシャル3時間!」※配信あり
9月9日(土)なにわブルースフェスティバル
9月10日(日)金沢・北國新聞赤羽ホール
「泉谷しげる全力ソロライブ90分」
9月15日(金)溝ノ口劇場
9月29日(金)所沢MOJO
10月15日(日)小田原quest
10月30日(月)石垣島すけあくろ
10月31日(火)宮古島GOOD LUCK!
11月1日(水)那覇桜坂劇場
*詳しくはホームページで