安室奈美恵やMAX、SPEEDなど名だたるアーティストを輩出した『沖縄アクターズスクール』。その創始者であるマキノ正幸さんの娘であり、振付師の牧野アンナさん(51歳)。はつらつとした表情は、年齢を感じさせません。
2000年代以降、活動が縮小傾向にあった沖縄アクターズスクールが今年、牧野さんの主導で新生『B.B.WAVES』のメンバーオーディションを開催中。新たなる才能の芽に出会うため、再始動しています。インタビュー第1弾では、アクターズの歴史ともリンクするアンナさんの波瀾万丈な半生を語っていただきました。(第1弾記事→牧野アンナがスーパーモンキーズでの活動で痛感した“絶対に敵わない相手”との圧倒的な差と、デビューから約2か月で沖縄に帰ったワケ)今回は、アクターズでチーフインストラクターとしての経験を積んだあと、振付師としてAKB48やSKE48の振付や公演プロデュースに携わった牧野さんに、思い出深いエピソードや、昭和と現代、そして日本と韓国におけるアイドルの違いについてお聞きします。
“地雷”を踏んだら最後、10代でデビューする女の子のメンタル管理の難しさ
──牧野さんは20歳のとき、『SUPER MONKEY’S』(スーパーモンキーズ。安室奈美恵やMAXらも在籍していたダンスアイドルグループ。以下、モンキーズ)として二度目のデビューを果たしました。「とにかくちやほやされて勘違いしてしまった」と語っていた一度目のときとは、周囲の対応は違いましたか?
「あまり変わらないですね。日本って、タレントのマネジメントはしても、教育はしないというか。アスリートだと必ずコーチがついて、プロになったあともずっと指導してもらえるし、メンタルトレーナーもいたりする。でもエンタテインメントの世界って、多感な年齢にもかかわらず、きちんとケアしてくれる人間が周りにいないんです。ただ、それってマネージャーにはカバーできない部分もある。だって、例えばパフォーマンスのことをマネージャーから指摘されても、“いやいや、あなたは歌って踊れないでしょ”ってなるじゃないですか。だから本当は、歌や踊りをちゃんと習得していて、彼女たちの人間性もよくわかっている人が近くにいて注意やアドバイスをしてくれたほうが、本人たちもスッと納得できるのではないかと思いますね」
──牧野さんは「ポニーテールとシュシュ」「フライングゲット」「ヘビーローテーション」「青空片想い」「ごめんね、SUMMER」などAKB48、SKE48の人気曲をはじめとし、AKBグループの振付も多数、担当されています。10代の女の子を中心としたグループを見ていて、どのように感じましたか。
「いわゆる思春期にアイドルとしてデビューする女の子って、メンタルの管理が本当に難しい。自己顕示欲の塊だったり、信じられないようなコンプレックスを抱えていたり……。地雷がいっぱい埋まっていて、うっかり踏んでしまうと、急にトイレから出てこないとか、いくらでもあります(笑)。でも当時と同じで、彼女たちをきちんと育成できる環境や、適切に教育してあげられる大人が身近にないことが原因だと感じています」
──確かに歌やダンスのレッスンはしても、メンタルまでケアするのは大変そうですね。
「私自身も、10代半ばに芸能界に入って、努力もしないで生意気になった経験があるので、その過程もわかるんですよ。キラキラした気持ちを抱いてデビューしてから、あっという間にダメになっていくという……。
自分の場合は、完全に打ち砕かれて沖縄に帰り、今度はアクターズで死ぬほど頑張ってみて、なんとかスランプから脱出するという経験ができました。モンキーズとして二度目のデビューをして、そこで自分はトップには立てないと悟り、アイドル活動を辞めると決断できたのも、その前に最大限、努力することができたからだと思います。周囲からしたら、どちらもアイドルを諦めて沖縄に帰ったという構図に見えると思いますが、心の持ちようは全然違いました。
アイドルの子たちが1回ダメになったとき、そこから抜け出せなくなるのもわかりますが、たまたま自分が落ちぶれと潔い幕引きのどちらも経験できたので、できればこれを生かして、メンタルを含めいい方向に導いていけたらなと思っています」
当時のAKB48は人気順をガラッと覆すのが難しい、振付中に眠ってしまう子も
──昨今のアイドル界の体制について、どう思いますか?
「現代のアイドル活動って、私がデビューした時代とは比べものにならないくらい、本当に過酷で孤独なんですね。私が見ていたころのAKBグループなんて、総選挙で人気順が可視化されてしまっていた。握手会も、めちゃくちゃ並んでるレーンの横に、1人も並ばないメンバーがいたりする。もうその光景がいたたまれなくなるんです」
──確かに、目に見えて順位がつけられると、つらいですよね。
「そこはグレーにしておいてほしいですよね。私がモンキーズにいたころに総選挙があったら、相当病んでいたと思います(苦笑)。AKBグループの場合は、売れている子はどんどんメディアに出ていくけれど、人気がない子たちは劇場にしか出演できない……。そうすると、立場を逆転できるタイミングがまずないんですよ」
──頑張ってもチャンスがないということでしょうか。
「プロデューサーの秋元康さんが、“みんなで頑張るキラキラした女の子集団”みたいなタイプではなく、前田敦子さんのように、“本当はセンターなんてやりたくない。だから頑張っている感じもあえて見せない”っていう感じの子もいたほうが面白という考えだったんです。だからメンバーも、グループ全体で一生懸命に奮起するよりも、“どうやったらセンターになれるか”、“がむしゃらに努力しているよりも、ゆるくやっているほうがいいと思われるかも”っていうような思考になってしまう部分があったのかと。前田さんの場合は、彼女のいろいろな要素が混ざった結果、魅力的だったのであって、周囲も同じようなことをやり出すと、ただのダメな子になりますよね……」
──前田さんは確かに、「何事にも全力投球!」みたいなタイプには見えませんでしたが、“絶対的エース”と呼ばれるくらいカリスマ性がありましたからね。
「当時は忙しさのピークだったこともあって、振付を教えていても、稼働が多いメンバーは疲れ果てて寝ていることもあったんです(苦笑)。ひどいときは、みんなが踊っているスペースに横になっていたり。周りがそれを避けながら踊るんですよ。さすがに私も“こんな状態では振付が教えられない”って言ったら、マネージャーさんが寝ていたメンバーの腕を持って隅まで引きずっていったという光景を覚えています」
松井珠理奈の頑張りとSKE48の“あり方”、当時は「大変だったことしかない」
──すさまじいレッスン現場だったのですね。以前、AKB48のバックステージの様子を撮ったドキュメンタリー映画を観たのですが、元SKE48の松井珠理奈さん(のちにAKB48も兼任)は、いつ代役に選ばれてもいいように、ほかのメンバーの振付も練習している様子がありました。
「彼女はすごく努力家でしたね。やはり10代の多感な時期におけるグループ活動だったので、ライバル心からか、なかなか自分の振りをほかのメンバーに教えたがらない子もいましたし、自分以外の分もマスターするのは大変だったと思いますよ」
──私も女子校育ちなのでわかりますが、特に女子だけのコミュニティの場合、足を引っ張りあうようなこともありますね……。
「SKE48は立ち上げからかかわっていたのですが、珠理奈はプロ意識が高くて、すごくやる気もある子でした。もともとAKB48とは違う色を出したいと思っていましたし、彼女のように努力をしている子がセンターに選ばれたので、ほかの子たちには、“珠理奈がいろいろな選抜に選ばれるようになったとき、彼女を妬(ねた)んで足を引っ張るグループにもなれるし、頑張って! と華やかな舞台に送り出すグループにもなれる。君たちはどっちを選びますか”って伝えたんです。“例えば、AKB48と一緒の現場に出た珠理奈を見て興味を持った子が、SKE48の劇場に足を運んできてくれて、今度はあなたのファンになるかもしれない。だから、珠理奈、行ってこい! って背中を押してあげるマインドになったほうが、みんなハッピーでいられるんじゃない?”とも」
──傷つきやすいメンタルをケアしながら、プロ意識を育てることも大事なのですね。
「日本では、“成長する過程が見たい”、“素人っぽさが逆にいい”というファン心理をすくい上げて、プロとしての心構えがゼロに近い子たちも、ポンとステージに出してしまう。でもステージ裏では、特に精神面において彼女たちを支えて、ちゃんと導いてあげることが重要なんです。今回、アクターズスクール再始動にあたり、こういうメンタル部分の教育にも力を入れてやっていくようにしたいと思っています」
──全盛期のAKBグループでは、時間がない中で振付を考案されていたと思うのですが、特に「これは大変だった」というエピソードはありますか?
「大変だったエピソードしかないです(笑)。多忙な秋元さんの作詞が遅れて、メロディーだけ先に送られてくることがしばしば。歌詞がない状態で振りを作るのはやはり難しいですが、歌詞が入った曲ができあがるのは当日っていうときもあったり。あとは歌詞が間に合って、それに合わせて振りを作っても、当日にサビの歌詞が変わって、サビに合わせたキャッチーな振付が使えなくなるということもあって……。さらに、メンバーたちも立ち位置への不満などで一筋縄には言うことを聞いてくれないときもありますし(笑)。でも、“もう何があっても対応する!”っていう気持ちだけ持って現場に行っていました」
──振付を作るときは、どのように進めていますか?
「振付師によってそれぞれ作り方は違うんですけど、私の場合はフォーメーションを先に作るタイプです。AKBグループみたいに大人数で同じようなダンスを踊っていると、観ているほうも飽きが早くきてしまうので、フォーメーションの組み替えで動きを出すようにしていました。AKBの振付を作るときって、列ごとに、立ち位置の番号をふっていたんです。例えば、“あなたは1列目の0番に立って、そのあと2列目の5番に移動”というように。でも、前から3列目以降とかになると、人数が多いこともあり、前の人との“位置被り”をすごく気にする子たちが出てくるんです。実際は、同じ番号でもなるべく重ならずに見える仕様にしているのですが、“私、番号が被ってるんですけど……”と、なかなか引かない。そこで、“0.75”とか、細かく刻んだ番号の立ち位置まで作っていましたね(笑)」
’80年代のアイドルは替えがきかない存在だった、日韓アイドルにおける違いは?
──先ほど、ご自身がデビューされたころより現代のほうが過酷な部分があるとお聞きしましたが、ほかに’80年代のころと現代のアイドルとでは、何が違うと思いますか?
「やっぱり昔は、グループより個々の力があるかないかが重要だったと思いますね。中森明菜さんや松田聖子さんをはじめとして、みんな生歌で上手に歌えて、1人でのパフォーマンス力も高くて、それぞれが唯一無二の存在だった。今はグループが主流になっているので、言い方がよくないですが、“替えがきいてしまう”んですよね。
あとはCDを購入した分だけ握手ができるシステムが成立したので、プロダクション的にも、とりあえずたくさんの女の子を集めて並べておくほうが稼げたりして、実力がつくまで教育するような制度は敬遠されるようになってきました。お金と労力がかかりますしね。そうすると、ほとんどの子たちが“使い捨て”みたいなかたちになってしまう。それと、SNSなどで自分の評判が、マイナスのことを含め、すぐわかるようになってしまった。だからメンタルが鬼のように強くないと、病んでしまう子も多いんじゃないかな」
──聞けば聞くほど、10代の女の子グループをハンドリングしていくのは大変だと思うのですが、何かうまくやる秘訣はありますか?
「アクターズ最盛期のときは500人くらい生徒がいて、そのほとんどが10代の女の子だったんですよ。基本的には、“その年ごろの女の子はウソをつくもの”って捉えて接していますね。だって、私もそうだったから(笑)」
──例えば、どういうときにウソをついたのですか。
「父からひどく怒られていたときに、涙を流して“すみません”って言っているけれど、心の中では“うるさい、ハゲ! ”みたいなことを考えていたり、“反省しました”とか言っておいて、注意されたことを直さなかったり(笑)。そういう経験があるから、10代の生徒が泣きながら謝ってきても、本当にそう思っているとは信じ込みません。でも、だからこそ恨むこともないし、ダメな子だなって思うことも、嫌いになることもない。“人間ってそういうものだ”と思っています」
──アンナさんは、ご自身の経験が豊富なので、指導者として深みがありますよね。
「私も父からずっと言われていて当時はわからなかったけれど、10年後に“こういう意味だったんだ”って、やっと理解できたことがいくつもあります。だから、たとえ10代の子たちが私が叱(しか)ったあとにすぐ舌を出していたとしても、大事なのは言い続けることなんです。何度できなくても、どんなに響いてなさそうでも、“こういうことだよ”って根気強く教えることを諦めない。忍耐力の勝負というか。それを続けて、いつかは私が言ったことをわかってくれるといいなって思っています」
──アクターズ再始動にあたって、今度はアンナさん自身がプロデュースしたグループを作りたいという希望もあるのですか?
「アクターズには当時、選抜メンバーで結成された『B.B.WAVES』というグループがあって、今開催しているのは新生『B.B.WAVES』を作るためのオーディションなんです。この集団を全国的に展開していきたいなと。将来的にはプロダクションに所属する音楽ユニットもいれば、女優さんを目指す子もいて、高度なダンスチームやコーラスが得意なチームもいるような、メンバーの個性を生かしたグループにできればと。そのために一人ひとりの適性を見ながら、技術的なこと以外にも、メンタルを含めて徹底的に育成していくつもりです。もし今後、新生B.B.WAVESが大きくなり、それぞれ個別の活動をするようになっても、最終的にみんなが戻ってこられる場所にできればと考えています」
──最近のK-POPブームについては、どのように感じていますか。
「日本の中でダンスや音楽を本格的に育成するシステムが整っていないので、最近ですと能力がある子たちは、みんな韓国を目指すんですよ。だから、日本から才能が流出していってしまう。それと、向こうは世界戦略をきちんと立てているので、だいたい英語やほかの外国語をしゃべれる子がメンバー内にいることも大きいと思います。でも、日本の中で本当にカッコいいものを作っていたら、“ここで頑張りたい”、“日本から世界に発信したい”という子たちが、全国から沖縄に集まってくれるんじゃないかなって思うんです。意欲に燃える子たちに憧れられ、受け皿となれるような場所を、アクターズから作りたいですね」
元アイドル及び現役の振付師である牧野さんの視点から見た、昨今のアイドル事情。牧野さんの言葉を聞いていると、エンターテインメント業界は煌(きら)びやかなだけではなく、才能、努力、精神力が欠かせない厳しい世界であることに気づかされます。続くインタビュー第3弾では、アクターズの社長であり父であるマキノ正幸さんとの確執、アクターズを辞めてダウン症児を対象としたダンススクールを設立した理由、そしてアクターズ復活への思いを、たっぷり語っていただきます!
(取材・文/池守りぜね)
【PROFILE】
牧野アンナ(まきの・あんな) ◎振付師。ダウン症のある方のためのエンタテインメントスクール『LOVE JUNX』代表。1971年12月4日生まれ。日本映画の父と呼ばれたマキノ省三を曽祖父に持ち、祖父は映画監督マキノ雅弘、祖母は女優の轟夕起子、親族に長門裕之や津川雅彦という芸能一家に生まれる。父・マキノ正幸の仕事の都合で沖縄に引っ越し、沖縄のアメリカンスクールで学生時代を過ごす。父が創設した『沖縄アクターズスクール』に入学し、『SUPER MONKEY’S』としてデビューしたのち脱退。以降、チーフインストラクターとして生徒の指導にあたる。’02年、日本ダウン症協会のイベントをきっかけに退職し、同年『LOVE JUNX』を開業。また、AKB48グループの振付を多数担当し、公演もプロデュース。’22年からは、沖縄アクターズスクールの再始動に向け尽力している。
◎沖縄アクターズスクール公式Instagram→https://www.instagram.com/actors_school1983/
◎沖縄アクターズスクール公式HP→https://o-actors.com/
【INFORMATION】
沖縄アクターズスクール『NEW B.B.WABESオーディション』開催中!
沖縄アクターズスクールの生徒でありながらCDデビューし、レギュラー番組を持ち、CM出演、漫画化なども果たしたB.B.WAVESを令和に再結成!
沖縄在住の小4〜高3の男女であれば、歌・ダンスの経験は不問。締切は2023年3月12日。