朝の通勤時間に電車に乗ると、前に立ってる人のスマホ画面が不意に視界に入っちゃうこと、ありますよね。そのときに漫画アプリを開いている人って、めちゃくちゃ多いと思うんです。で、そのたびに謎の罪悪感を覚えて目をそらしながらも、「動画やらゲームやらの“暇つぶしツール”が増えてるのに、漫画はまだまだ強いなぁ」と、妙にうれしくなります。
漫画の歴史を深くさかのぼると平安〜鎌倉時代にまで話が及ぶわけですが、今みたいに「コマ割りがあって、吹き出しがあって」という形になったのは、意外とここ100年くらいのこと。そして大人が普通に漫画を楽しめるようになったのは、ここ60〜70年くらいのことなんです。つまり、漫画は信じられないスピードで進化して、今に至るのです。
そんな漫画の歴史を「おしゃべりするくらいの感覚で気軽に追ってみよう」というのが、この企画。前回は神様・手塚治虫が漫画に革命を起こした戦中・戦後の漫画について紹介しました。《記事:藤子不二雄も「なんでこんなに興奮させられるんだ」と絶賛、漫画の神様・手塚治虫が起こした“革命”がスゴい!》
今回は1960年代について。漫画が子どもにとって欠かせない存在になる一方、青年も漫画を読むのが普通になったり、東京五輪を受けての“スポ根ブーム”が起きたり、少女漫画の表現にも革命が起きたり……。とにかく大激動の時代です。
主婦らによる「悪書追放運動」がエスカレート
さっそく、1960年代の漫画家や作品をガーッと紹介していきたいんですが、その前に触れなくちゃならないことがあります。1955~1959年くらいに、2つの「大事件」が起きるんです。
まず紹介したいのが、1955年にピークを迎える「悪書追放運動」。子を持つ親の一部から漫画への激しいバッシングがあり、「漫画は子どもに悪影響を与えるから読むな」といわれたんですね。
“悪書追放”の発端は「お父さんが買ってきたエロ本を、子どもが持ち出して回し読みしていたこと」だったようです。男性諸君なら経験があるでしょう。小中学生のとき、ちょっぴりオトナな雑誌を持ってくる友だちは、もうなんか、ナポレオンばりの英雄に見えましたよね。完全に後光が差してました。
ただね、お母さんとしては「いや、悪影響やなコレ」と、苦虫まるかじり状態だったわけです。『クレヨンしんちゃん』が子どもに見せたくない番組ランキングの常連だったのと近いですね。それで、怒った主婦たちが教育に悪い雑誌を根絶やしにしようとします。「教育に悪い」というのは「性的」なものだけじゃありません。「暴力的」「科学的にあり得ない」といったものまでを指しました。これには当時の首相・鳩山一郎も大賛成し、警察も本格的に乗り出す国家レベルの問題でした。
“悪”とされた「不良出版物」はエロ本だけでなく、漫画にまで波及するのです。で、PTAの方が、かっぽう着を着て小学校の校庭で漫画とか雑誌を燃やすんですね。どうでもいいんですけど、これ、お父さんは同席してるんですかね。灰になるわがエロ本を、どんな顔をして眺めていたのかが気になります。
なかでも、漫画家代表としてやり玉にあがったのが手塚治虫。『鉄腕アトム』も「SFは科学的にあり得ないから描くな」とPTAから怒られていました。いま考えたらだいぶヤバい。『アンパンマン』を見て「いや、アンパンに手足は生えん。あとカバは四足歩行な」などと真顔で指摘するようなもんです。当時は、それくらいSFやファンタジーに否定的な人も多い時代でした。
手塚治虫はPTAの集会によく呼ばれて、壇上で糾弾されることもありました。しかし、毅然(きぜん)として「漫画は子どもに夢を与えるものだ」と答え続けたといいます。
悪書追放運動は数年後には下火になり、1960年ごろ、ぬるっと収束します。当時の漫画関係者にとっては地獄の数年間だったと思いますが、ポジティブに考えると「漫画は子どもにとって、ものすごく影響力がある」と思われていた証拠でもあるんですよね。1955年ごろには、漫画はそれほどまでに巨大なメディアに成長していたわけです。
テレビ放送がスタートし漫画雑誌が週刊化
さて、1950年代に起きたもう1つの事件が「週刊化」です。その背景として、まず1953年にNHKが「テレビ放送」をスタートします。テレビによって「情報伝達」のスピードがリアルタイムに近づくんです。すると、人の生活サイクルも早まる。雑誌も「これ、月刊じゃ世間のニーズを満たせないぞ」となります。
それで、1950年代後半に、大人向け月刊誌が次々と週刊化。1950年代半ばといえば、「もはや戦後ではない」で有名な、神武景気から岩戸景気に移る時期です。懐に余裕があるサラリーマンが「駅で週刊誌を買って、寝ぼけ眼で通勤中に読んで、勤務先で同僚との話題にする」ってのが恒例になり、週刊誌が売れまくりました。
1958、59年ごろは、前述の悪書追放も下火になり、少年・少女向け漫画雑誌が盛り上がっていた時期。月刊連載の『鉄腕アトム』『鉄人28号』『リボンの騎士』『月光仮面』などが人気のなか、1959年3月17日、『週刊少年サンデー』と『週刊少年マガジン』が同日にスタートします。
この2誌はこのあと長いあいだ、ライバルとして切磋琢磨(せっさたくま)しながら、子ども向け漫画を発展させていくんですね。その勢いに乗って、1963年に「週刊少年キング」、1968年に『少年ジャンプ(1969年から週刊化)』、1969年に『少年チャンピオン(1970年から週刊化)』がスタートし、「5大週刊少年漫画雑誌」として市場を広げていきます。
「週刊化」によって「子どもの毎週の楽しみが増える」というだけでなく、漫画家の発表の場が増えました。同時に、週刊化したことで、漫画家や漫画編集者に「超多忙」というイメージがつきました。
手塚イズムを継承し進化させる“レジェンド”たち
こんな感じで、1950年代は、漫画が子どもにとって欠かせない読み物になり始めた時代だったんですね。そんな時代に、漫画好きなら知らない人はいない伝説的アパート「トキワ荘」が誕生します。
手塚治虫をはじめ、赤塚不二夫、石森章太郎、寺田ヒロオ、藤子不二雄両氏、水野英子など漫画界のレジェンドたちが住みました。もう完全に”お化け屋敷”ですよね。
トキワ荘の漫画家たちは、入居時はほぼ新人。ただ、退去後にレジェンド的作品を出して成功しています。
なぜ、このアパートからレジェンドが生まれたのか。その理由のひとつが「入居基準」にあります。トキワ荘にはローン的な意味でなく、作品的な「入居基準」があり、兄貴ぶんのような存在である寺田ヒロオと藤子不二雄両氏が入居前に作品を審査していたそう。「すばらしい作品でも、画風が合わなかったら断っていた」といいますから、必然的に相当な精鋭が集まったんですね。こんなの、六本木ヒルズより住むの難しいですよ。
また、ビジネス的な観点でいうと、トキワ荘には漫画家ごとの編集者が出入りするわけで、新たな仕事をもらいやすい土壌もあったのでしょう。自然と発表の場が増えたのは大きかったと思います。
そして、何より「同志」がいることは強かった。藤子不二雄(A)は「ライバルというより『兄弟』だった。誰かがいい作品を描けばこっちもうれしいし、頑張ろうって」と当時を振り返っています。
私は「この環境こそ、トキワ荘の漫画家がみんな売れっ子になった要因だったのではないか」と思うのです。ひとりでは心が折れそうでも、有望な若手漫画家が集まることで周りの活躍が耳に入ってくる。すると、気力が湧いてくるんですね。しかも、妬(ねた)み嫉(そね)みよりも、前向きに頑張ろうと思えたわけですから。いい刺激しかなかったわけです。
これ、「周りが有望だった」というのがミソ。シェアハウスって周りとしゃべっているだけで、なぜか「やってる気」になるもんで、周りが鳴かず飛ばすだったら「腐ったミカン状態」になりますからね。おそらく日本のどこかには、住人全員が「手は動かさないが夢はやたらと語り合う」という地獄のシェアハウスも存在するはずです。
手塚イズムから変化していくトキワ荘出身者の画風
赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄両氏に通ずる要素として「手塚治虫の『新宝島』を読んで漫画家を志した」という共通点があります。初期のトキワ荘系の漫画は、基本的にターゲットを子どもとしており、背景・キャラクターのタッチが、あえて簡潔にわかりやすく描かれているのが特徴です。これは前回の記事でお伝えしたとおり、手塚治虫の影響でもあります。
例えば、藤子.F.不二雄のアシスタントだった、たかや健二の『僕の藤子スタジオ日記』では、複雑な背景を見た藤子・F・不二雄から「僕の絵に合わないからデフォルメしてほしい」と指示があったことを回想しています。
またストーリー的にも、わかりやすく笑えるギャグが多い。舞台もSF的・ヒーロー的なモノが多く、ひと目見て引きつけられます。子どもが思わず夢中になってしまうものが詰まっているわけです。それは、今の時代も変わりません。
ただ、後年になって、トキワ荘系の漫画は少しずつ手塚イズムを脱出し、大人向けの漫画も発表していきます。
例えば、藤子不二雄(A)は1968年、青年向けコミック誌に『黒ィせぇるすまん(のちの『笑ゥせぇるすまん』』を発表しました。また、石森章太郎は1964年ごろから『明星』『平凡』といったティーン女性向けの雑誌で『ガイ・パンチ シリーズ』など、ちょっぴりセクシーで大人っぽいタッチの作品を発表します。赤塚不二夫も1970年代に『めくるめっくワールド(昼の部・夜の部)』という、ものすごくディープで大人なギャグ漫画を描いています。
藤子不二雄(A)は、「最初は手塚先生に憧れたのだから先生のような作品を描こうとしたが、それではいつまでたっても抜けない。それで、自分にしか描けない作品にシフトした」と言います。
この言葉が表すように、トキワ荘の面々は子ども向け漫画からスタートしましたが、1960年代以降はそれぞれの土壌で勝負をするようになるんです。これにより、大人向け漫画の世界も広げていくんですね。
貸本・劇画系のヒット作も登場
1960年代はまさに激動の時期であり、トキワ荘だけでは終わりません。トキワ荘が地上で活躍するメインストリームだとしたら、ちょっとサブカルっぽいところにも革命児たちがいるんですね。そのひとつが「劇画」でした。
1950~60年代当時に流行(はや)っていたのが「貸本店」。もともと戦後すぐから、「赤本」という書籍がありました。これは出版社の正規ルートを通さずにコストを抑えて作られた本で、書店ではなく、祭りの縁日や駄菓子屋なんかで売られていました。ただ、1955年くらいから値上がりして、小学生のお小遣いでは買えなくなります。
その代わりに、10〜20円くらいで借りられる「貸本店」が急増するんです。当時は学校の図書館みたいに、本の末尾に借りた人の名前を書くスタイルでした。だから、漫画編集者が貸本店に来て本の末尾を見て、「どれくらい人気なのかな~」と調べていた時代です。
貸本店にある漫画は比較的、小規模な版元が多かった。書店に置かれる大手版元では、前述したトキワ荘系の漫画家たちが描いていたんですが、小規模な版元の貸本漫画はさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦といったメンツがスターだったんです。
彼らは、貸本漫画の人気が高まっていくころに、「劇画」の母体となった貸本短編誌『影』『街』といったヒット作品を作ります。1957年末には辰巳ヨシヒロが『幽霊タクシー』という作品で初めて「劇画」という言葉を使いました。従来の少年漫画に対してアクション性の高いストーリー漫画を指し、最初のほうこそ「説画」や「駒画」など呼称にばらつきがあったんですが、最終的に「劇画」と呼ばれるようになります。さいとうや松本も編集者に「紹介文に劇画と書いてほしい」と依頼していました。
「劇画漫画」は、絵のタッチが子ども向けの漫画とは明らかに異なるんですね。まず、キャラクターが当時はかなり写実的。線は男らしくて太く、背景の描き込みが複雑です。さいとう・たかをが描いた『ゴルゴ13』のデューク・東郷の眉毛を想像していただけるとわかると思います。カメラワークも引き・俯瞰(ふかん)的なショットがふんだんで渋く、画面もかなり暗めです。ストーリーも笑いどころは少なく、かなりシリアスな展開が多い。まさに「ハードボイルド」ですね。
この「劇画」は漫画の歴史において、とんでもない革命でした。というのも、当時は「漫画=子どもの読み物」というイメージが強かったんです。松本正彦の自伝漫画『劇画バカたち!!』では、当時、貸本店を訪れた辰巳・さいとう・松本が店主から「いい年の大人が漫画を読むなんて世も末だね」と、あきれられる描写があります。
ただし一部、大人向けの「風刺漫画」はありました。それにも「くすっと笑える要素」は必要だったんですね。
しかし、劇画の誕生で、漫画は「必ずしもユーモラスでなくていい」「青年や大人も楽しめるもの」とイメージが拡大されます。今では、いろんな漫画があって老若男女誰しもが楽しめますが、その出発点はまさに「劇画」だったわけですね。
一方で、これに対抗心を燃やしたのが、子ども向け漫画を描いていた「トキワ荘」のメンバーです。
手塚治虫は劇画の代表作のひとつ、『巨人の星』を読んで「これのどこが面白いのか、説明してください」と、ちょっとキレ気味でアシスタントに尋ねたといいます。また、藤子不二雄両氏は「(劇画漫画を読んで)メラメラと情念を感じた」と回想し、赤塚不二夫は「絵がリアルならいいのか」と面白がって『ゴルゴ13』のパロディを作りました。
ただ、赤塚は「これからの時代は劇画が来るかも」と予感していたともいいます。事実、1960年代には『週刊少年マガジン』によって「劇画ブーム」が来るんです。「トキワ荘vs劇画」という両者のぶつかり合いによって、さらに青年向けに意欲作が生まれ、1960年代に漫画の表現技法は発展していきます。
“攻め”の漫画「ガロ系」が世間に受け入れられていく
劇画が盛り上がってきた1964年にリリースされるのが『月刊漫画ガロ』。サブカル系の、いわゆる「攻めた表現の漫画」のことを今でも「ガロ系」といいますね。これはマジで主観ですけど、文化系サークルに属する黒ぶち眼鏡をかけた大学生の部屋には、2022年の今でもほぼ100%、ガロの漫画がある。それくらい、今でも主に文系の大学生に影響力を与え続けている雑誌です。
『ガロ』を立ち上げたのは出版社、青林堂の創業者・長井勝一と漫画家・白土三平です。初期はそこに『鬼太郎夜話』を描いていた水木しげるなどを含めた体制で漫画を発表していました。ちなみに、白土と水木は紙芝居出身の漫画家で、実は、あの「ゲゲゲ」で有名な鬼太郎も、最初は紙芝居のキャラクターです。
『ガロ』が創刊された1964年は、テレビや週刊少年誌の普及によって貸本漫画が衰退していた時期。だから、あえて貸本ではなく、コストがかかるうえに競合がめっちゃ手ごわい一般書店向けに雑誌を出しました。ライオンとトラがいる檻に、ちっちゃいモルモットがゆっくり入っていったようなもんなので、周りからは「いやいや、絶対ムリ。2歩目で食われるって」と止められたそうです。
でも『ガロ』がすごいのは、そんな完全弱者なのに「売れること」よりも「漫画としての面白さ」を優先したところ。つまり、常人の思考ではついていけない”とがりまくった作品”が、デビュー志望者から持ち込まれ、編集者の干渉をほぼ受けずに出版されるんです。確実にモルモットなんですけど、痛点がない、みたいな「超ストロングスタイル」。これ、とんでもない男気ですよね。シビれます。
蓋(ふた)を開けるともちろん、創刊当初は鳴かず飛ばずでした。しかし、1966年ごろから、その攻めっ攻めな表現主義の漫画が、大学生くらいの年代にだんだんと受け入れられ始めます。
というのも、1960年代後半から国内外で、“既存の秩序破壊ブーム”が起きたんです。「フォーマットをぶっ壊していこうぜ!」っていうね。アメリカでは黒人差別に対してヒッピー・ムーブメントが誕生した。日本では「大学生による全共闘」が起きたわけですね。
そんな思想と『ガロ』の今までに読んだことがないほど芸術性・作家性が高い漫画は、親和性が超高かったんです。それでガロは70年代にかけて、インテリ系サブカル青年たちに支持されます。
『ガロ』の漫画のスゴいのは、今でも「斬新すぎるやろ。何じゃこの漫画は……」と絶句してしまうくらい攻めているところ。冗談抜きで、今も昔も最先端の雑誌なんですね。その結果、50年以上たった今でも、『ガロ』の漫画はインテリ系サブカル大学生を魅了しているのです。
そして『ガロ』のヒットにメラメラしていたのが、漫画の神様であり、負けず嫌いの神様でもある手塚治虫です。手塚は1967年に『COM』という、『ガロ』への対抗心をむき出しにした雑誌を創刊。「まんがエリートのためのまんが専門誌」というキャッチフレーズのとおり、それまでの子ども向け作品とは違った、実験的な青年向け漫画を掲載します。
手塚は、『ガロ』のスター作品だった白土三平の『カムイ伝』に対抗して、『火の鳥 黎明編』を巻頭で連載します。また、石森章太郎が『ジュン』という、セリフがほぼない作品を発表しました。
また、『ガロ』と同様に、デビュー志望者からの投稿欄(「ぐら・こん」)を掲載。ここから、あだち充、岡田史子、竹宮惠子、長谷川法世、日野日出志、諸星大二郎といった1970年代以降の漫画ブームをけん引する漫画家を輩出しています。
少女漫画に「ロマンチックさ」が芽生える
また、1960年代は少女漫画にも新しい波が出てきた時代なんです。
1950年代に手塚治虫が『リボンの騎士』をはじめ『ナスビ女王』や『龍が淵の乙女』といった、ロマンにあふれている、ファンタジックな世界観の作品をリリースしました。
とはいえ、戦後当時はまだまだこうしたロマンチック系の作品は少なかった。どちらかと言うと『サザエさん』のような、ありのままの女性像がウケていた時代だったんですね。
そんななか出てくる少女漫画界のスターが、トキワ荘の紅一点・水野英子。彼女は赤塚不二夫・石森章太郎と共同で漫画を描いており、その縁でトキワ荘に入りました。彼女の出世作となったのが1960年の『星のたてごと』。日本で最初に北欧神話を題材にした作品です。また、その後に『白いトロイカ』を発表。これはロシアの帝政時代を舞台にしたものでした。
こうした「西欧的な世界観を舞台にした壮大でロマンチックな少女漫画」は、1970年代に大ブームを巻き起こします。水野英子はまさにその先がけであり、「女性版・手塚治虫」といわれることもあります。
そのほか「学園もの」や「ギャグ漫画」が少女漫画の世界に取り入れられるのも1960年代です。
1964年の東京五輪で盛り上がる「スポ根漫画」
1960年代といえば、1964年の東京五輪です。これによって「スポ根もの」がめちゃめちゃブームになります。漫画界では梶原一騎が大活躍。原作者として1966年に『巨人の星』、1968年に『あしたのジョー』『タイガーマスク』を発表します。
また、東京五輪で大人気となったのがバレーボール女子の日本代表、通称「東洋の魔女」です。ずっと「え、国の英雄なのに魔女? ディスってるやん」と思っていたのですが、負かされた側のヨーロッパのメディアが「魔女」と称したのが由来だそうですね。
そんなバレーブームにあわせて、少女漫画では1968年に『アタックNo.1』が登場。その対抗馬として同年に『サインはV!』がスタートします。同じ年に同じスポーツの漫画が2作出てくるのが、まずスゴいですよね。しかも、供給過多にならずに「両方とも国民的人気作になった」というのが、東洋の魔女ブームのすさまじさを表しているといえるでしょう。
今回は1960年代の漫画の歴史をご紹介しました。トキワ荘、劇画、ガロ、COM、西欧風少女漫画、東京五輪のスポ根ブームと、当時の漫画界隈(かいわい)はマジで大忙しですね。
1960年代は漫画という娯楽が、子どもにとって欠かせないものであり、さらに、大人にも受け入れられてきた時期でもあります。
そんな黎明期ゆえ、フォーマットも何も定まっていなかった。逆にいうと「何でもあり」の時代だったんですね。だからこそ、あらゆる革命が起こり、“型”が定着していく。そして果敢に挑戦して型を発見した漫画家は、後世に影響を与えたレジェンドとして語りつがれるわけです。1960年代は赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄、さいとう・たかを、白土三平、辰巳ヨシヒロ、松本正彦、水木しげる、水野英子など「レジェンド大量発生の時代」です。
次回は今回ご紹介した巨匠たちが活躍しつつも、若手がまた新たな扉を開けていく1970年代をご紹介。少年漫画はもちろん、少女漫画がグワーッと盛り上がった、きらびやかな時期ですね。あのバラや星が乱舞するキラッキラの世界は、いったいどのようにして広がっていったかを見ていきましょう。
(文/ジュウ・ショ)
【参考文献】
◎『日本漫画全史:「鳥獣戯画」から「鬼滅の刃」まで』(平凡社刊)
◎『日本の漫画本300年:「鳥羽絵」本からコミック本まで』(ミネルヴァ書房刊)
◎『「コミックス」のメディア史 モノとしての戦後漫画とその行方』(青弓社刊)
◎『劇画バカたち!!』(青林工藝舎刊)
◎『漫画熱』(筑摩書房刊)
◎『赤塚不二夫裏1000ページ』(INFASパブリケーションズ刊)
◎『ぼくの藤子スタジオ日記 完全版』(藤子不二雄ファンサークル ネオ・ユートピア刊)