京都に「Cafe & Pantry 松之助」、東京・代官山に「MATSUNOSUKE N.Y.」を構える平野顕子さん。アメリカ・ニューイングランド地方の伝統的焼き菓子を学び、50歳を過ぎてから、まずは京都の中心地に教室兼お店をオープンさせた。
【平野さんが45歳で離婚、47歳で留学を経験し、アメリカで培ったケーキ作りのスキルを生かして日本でお店を開くことを決意するまでを描いた記事も公開中:“夫に仕える人生”だった港町の専業主婦が45歳で離婚、行列のできる焼き菓子店オーナーになるまでの激動の半生】
店舗拡大、共同経営をへて──
「(帰国後すぐに実家のキッチンでケーキ教室を開いたときのように)自宅でサロン風にやるならいいけど、物件を借りてビジネスとして展開するのはとても大変なんだと、よくわかりました。でも、“なんとかなるわ”と突き進んできた。町家を借りて、大好きなニューヨークの食料品店『ディーン&デルーカ』風に改装して。周りは心配していたと思いますよ」
それでも自分の思いを諦めたくなかった。留学から戻ってきてからの彼女は、すべて自分の意志で決断してきたという。
「ただ、店名をどうしようかと悩んでいると、実家の織元を継いだ弟が“じいさんの名前使ったらええやん”って。それで『松之助』になったんです。伝統的なお菓子だし、インパクトがあるから覚えてもらえるかな、という思いもあって」
この話には後日談がある。お店で出すケーキの箱につけるリボンに、松之助の名前がローマ字で印刷されているのだが、もうひとつ『ロビン・ウッド(Robin Wood)』という名も書いてある。これは、平野さんが幼稚園のころの親友の名前。近所に住んでいたのだがアメリカに帰国してしまい、それきり連絡をとることができなかったのだ。「リボンには、なんとなく横文字が入っていたほうがいい、それなら“初めての友だち”の名前を入れよう」と考えたのだという。
「お店を出したあと、アメリカでケーキ作りを教えてくれたシャロル先生がそのリボンを見て、これは? と。そこからいろいろなツテを頼って、ロビンがオレゴン州に住んでいることがわかったんです。彼女がニューヨークまで来てくれて、45年ぶりくらいに再会しました。こういうことがあるんだ、と鳥肌が立ちましたね」
京都の店が軌道に乗れば、次は東京進出だ。学芸大学に自宅兼教室のアパートを借りた。生徒集めのためのビラ配りも、ちっとも苦ではなかったという。
その後、赤坂で知人と共同経営で店を出したのもつかの間、意見の相違から袂(たもと)を分かつこととなった。次が今の代官山である。「身の丈に合っていないのではないか」と一昼夜、悩み抜いたが、そのときも弟が「やればええやん」と軽やかに言い放った。
“年に何回かは食べたくなる”と言われるケーキを作りたい
それからは東京と京都をまさに東奔西走する日々。2か月に一度はアメリカに行って、お菓子作りに必要な材料や道具なども仕入れてこなければならない。毎日のように朝・昼・夜と教室があり、一度に8人の生徒を教えていた。店に出すケーキもすべてきちんとプロデュースした。
あるとき、テレビでとある女優さんが「お土産として持っていく」とアップルパイを紹介してくれたことから、松之助のアップルパイが爆発的に売れた。しばらくは代官山の店の前に行列ができていたという。
「ほかに店を持つとかデパートに出すとか、そういうことは考えませんでした。シンプルなケーキばかりなので、量産しすぎると味が落ちるし、材料の品質を落としたらすぐわかる。混ぜ方、焼き具合、ほんの些細(ささい)なことで味が変わる。お客様の舌は正直です。おいしくなかったら、お客様はすぐにいなくなります。そういう怖さがあるんですね。そもそも、すべて手作りなので、量産できません。いつでもどこでも買える便利なお菓子ではなくて、“年に何回かは食べたくなる”と言われるケーキを作っていたいんです」
それは平野さん自身が、若いときに食べた『トップス』のケーキや、青山にあった『ココパームス』のチョコレートパイなどへの思い入れが強いからだ。ときどき、だが無性に食べたくなるケーキを目指して、彼女は今も勉強中だという。
ただ、ニューヨークに店を出す夢だけはどうしても諦めきれなかった。駆け抜けた50代をへて60代になってから、思い切って夢を現実にした。
「物件があったので飛びつきました。小さなお店だったけど、私にはちょうどよかった。ケーキは買いに来てもらえたんですが、とにかく賃料が高い。撤退時期を間違えたらいけないと感じて2年で閉じました。結果はともあれ満足でしたね」
60歳を過ぎ、新たなご縁に恵まれた
そのころ、友人のパーティで、のちに再婚した彼・イーゴさんと出会った。彼は彼女が店をオープンさせるにあたって荷物を運んでくれたり、さまざまな手伝いをしてくれた。
「店は続かなかったけど、彼とのつきあいは深まった。“いいことは同時には手に入らない”、“人にならった生き方はすまい”ということでしょうか(笑)」
あるとき、平野さんが体調を崩して少し吐いたことがあった。彼はそれをとっさに両手で受けてくれた。なかなかできることではない。それに否定的なことを言わない、否定的な考え方をしないのも彼のいいところ。
「物にこだわりがないんです。900円のスニーカーでもかまわない。自然を愛し、好きな人とその日1日を大事に楽しく暮らしていきたい。そんな人なんです。口癖は『シェア』。なんでも分けあって、何かしたら『We did it』。目線がWeなんですよね。人生はシナリオ通りにはいかないけれど、一緒にいてお互いに少しでもいい人間になれたらいいな、と私は思っています」
どんなことも「やってみはったら!」
平野さんの母は、優しい人だったが、姑に仕え夫に仕えて、自分の人生を生きていないように見えたという。心のどこかで“人に添うだけの人生は嫌だ”と思っていたのかもしれない。人生半ばで彼女が日本を飛び出したのも、ずっとためてきたものがあったからだろう。そして、それを後押ししてくれたのは、ことあるごとにビシッと厳しい言葉をぶつけてくれたり、無条件に応援してくれたりした娘の存在だ。
「娘と息子はいつも反応が違うんですよ、私が留学すると決めたとき、堅実でクールな息子は、“どこにそんなお金があるの。ムダなことはやめなさい”と。でも、“お金の使い方は人それぞれだし、私が2年でその費用を使い切っても幸せなら、それでいいでしょ”とまじめに言ったら、“それだけの決心があるなら、しょうがないね”と言ってくれました。
一方、娘は“行ってらっしゃい。もし卒業できたら快挙じゃない! もしできたら、だけどね”って(笑)。当時、2人で一度だけ一緒にニューヨークに来てくれたんですよ。とても励まされました」
再婚に際しても、娘は「今を楽しんでね」と背中を押してくれた。
「私が今でもはっきり覚えているのは、子どもたちが伝え歩きを覚えて、私のほうに向かって歩いてきた最初の一歩なんです。あのときの感動だけは忘れない。この子たちの人生の一歩が、私にはすごくうれしかった」
母として命の重さを知っているからこそ彼女は、子どもたちの手が離れたとき、今度は自分を育てていこうと決意したのかもしれない。「せっかく授かった人生なのだから、躊躇(ちゅうちょ)しているのはもったいない。やりたいことをやりたいようにやってもいいのではないか」と。
平野さんが半生を振り返って著した『「松之助」オーナー・平野顕子のやってみはったら! 60歳からのサードライフ』(主婦と生活社刊)には、どんなことでもやってみなければわからない、と、縁と丁寧に向かい合ってさらに道を切り開いてきた彼女の人生哲学がちりばめられている。とはいえ、堅苦しいものではなく、めんどうなものでもない。誰でも自分の心に耳を澄ませば、きっと心の奥から「やってみはったら!」という声が聞こえてくるだろう。結果はともあれ、「やってみる」ことがいちばん重要なのだ。
小柄な平野さんだが、今も日本にいるときは教室を開催、自ら熱心に教えている。47歳から全速力で走り続け、70歳を越えた今、ようやくゆるやかに歩く楽しさもわかったという。
「先々の夢を追いかけて走ってきたけど、今は毎日、今日をどうやって豊かに生きようか考えているの」
そう言って彼女はキュートな笑顔を見せた。
(取材・文/亀山早苗)