「JAPANESE R&E(リズム&演歌)」を標榜(ひょうぼう)するバンド『怒髪天』のボーカル・増子直純さん。近年は、バンド活動以外にも『スッキリ』(日本テレビ系)のマンスリーMCや、NHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』やロック・オペラ『サンバイザー兄弟』といった宮藤官九郎さんが手がける作品にも俳優として出演するなど、活躍の場を広げている増子さん。
現在56歳の増子さんに、上京前のヤンチャだった北海道時代から、挫折も味わったバンド活動、そして40代で初めて行った武道館ライブについて語ってもらいました。
ケンカばかりしていた幼少期。高校卒業後はだまされて自衛隊に!?
──幼少期はどんな子どもでしたか?
「いわゆるヤンチャな子どもだったね。いたずらとケンカばっかりしていた(笑)。保育園でも、いっつも怒られちゃう。俺、4月生まれだったんだけれど(注:4月23日生まれ)、学年が1つ上のクラスに入れられたんだよね。それなのに、ケンカばかりしていたね」
──以前、インタビューした掟ポルシェさん(注:ニューウェイヴバンド『ロマンポルシェ。』のボーカル)が、増子さんは『爆裂都市 BURST CITY』(注:1982年公開の石井岳龍(旧名・石井聰亙)監督作品)を観て、“パンクは向こうから来たやつ、全員殴らなきゃいけないな”って思っていたと語られていましたが、本当なのですか?
「一種のチャレンジだよね(笑)。昭和の時代って、パンクってそういうもんだって誤解していたんだよね。俺が中学校の頃にヤンキー文化っていうのがあったんだけれど、当時は、パンクっていうもの自体が、限られた雑誌の写真とかの情報でしかわかんなかった。みんないろいろ勘違いしていたんだと思う(笑)。レコードにはレーベル(注:レコード会社またはそのブランドのこと)があるでしょ。でもレーベルっていうもの自体の概念も全然、なんだかわからなくて。暴走族のチーム名みたいなものだって思っていたからね(笑)。今じゃ考えられないよね」
──よくバンドマンがネタで「増子さんは怖かった」みたいに名前を挙げたりしますが、あれは本当な部分もあるのでしょうか……。
「俺らの世代のパンクってみんなそうだよね。街の不良がやるものだったからさ。暴れてなんぼみたいな。ケンカが強くないとバンドは残れなかったからね(笑)」
──では、音楽に目覚めたのはいつ頃でしたか?
「中学の時にロックは聴いていたけど、自分でバンドやろうなんて思ってもいなかったからね。音楽の成績もずっとよくなかったし、合唱とかできなくてね。俺的には“こっちのほうがいいんじゃないかな”と思って気持ちよく歌っちゃうからね。高校の時にバンドはちょっとやっていたけれど、コピーバンドに毛が生えた程度っていうか……。俺は楽器も弾けないしね」
──お聞きしていると、周りからは目立っていたんではないですか?
「目立とうとはしていなかったけれど、弟(注:増子真二。バンド『DMBQ』のボーカル・ギター)とともに、地元で知らない人がいないみたいな雰囲気だったね。ただ子どもだったから、悪いことしているつもりは一切なかったんだよね」
──高校卒業後は、自衛隊に入られたのですよね。
「入ったんじゃなくて入れられたんだけど(笑)。親にだまされてね。“自衛隊で半年、飛行機の整備を習えば、飛行機の整備会社に入れるから”って言われて。“なんだかんだ言っても親だな~”と思って喜んで入ったらつらかった。2年弱かな、えらい目にあったよ。自衛隊を辞めて、札幌に戻ってバンドやりたいなと思っていたね」
──将来はミュージシャンになりたいと思っていました?
「いや。特にそこまでは考えてはいなかったよね。今、バンドをやりたいと思ってやっている若い子らとは決定的に目指しているものが違う。俺らの場合、バンドってフラストレーションのはけ口というか、パッションというか……。“楽器が弾ける、弾けない”とか以前に気持ちが先走ってバンドを組んでいるからね」
上京後、事務所が倒産! メンバー全員でバイト生活
──地元・札幌でのバンド活動が軌道に乗ってきたから、上京されたのでしょうか。
「札幌でワンマンやっても300人ぐらいは入るようになっていたけれど、ずっとお客さんや対バンするバンドも同じで頭打ちになっていたら、先に上京している友達が、“やっぱり東京はすごいよ。対戦相手がたくさんいる”って言うんだよね」
──(笑)。バンドがいっぱいいるってことですよね。
「そう。俺が25歳だから’91年だったかな。“札幌にいる仲間たちは、絶対に東京のバンドに負けてないから上京したほうがいい”って言われて、“そんなに面白いんだったら行くか”って勢いで出てきた。周りが上京して、だんだん友達がいなくなってきちゃったからね。俺の弟やブッチャーズ(注:bloodthirsty butchers。オルタナティブロックの伝説的バンド)とか、周り含めたらもう70、80人とか出てきちゃった。札幌の音楽シーンがなくなっちゃったよ(笑)。SLANGのKOちゃん(注:老舗ライブハウス『札幌KLUB COUNTER ACTION』のオーナー)だけ残してきた。俺らが帰る場所がなかったら困るからね」
──バンド活動をするために上京されて、驚いたことはありましたか?
「東京に来てびっくりしたのは、バンドマンがみんな高学歴だったことだよね。北海道から大挙して上京してきたけれど、みんな本当にろくでもないやつばかりだからね。大学出ているのにバンドやって、親が怒らないのかな? って(笑)。俺が親だったら許さないけどね」
──北海道出身のバンドは、怒髪天もそうですが独自の音楽性が強いミュージシャンが多いと思いますが、その点についてはどう思いますか?
「やっぱり原始的っていうか、いわゆるエモい部分っていう気持ちから、バンド組んでるやつばっかりだから。気持ちのほうが先走っているっていうか。そういうもんだと、ずっと思ってきているし、今でもやっぱりそれが一番美しいと思っている。ブレーキというか、自分を制御するもののタガが外れたときに、ロックのミラクルが起こると思う」
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──怒髪天は、メジャーデビューはすぐに決まったんですか?
「実は上京する時にすでに事務所に入る話もあったんだよね。最初は事務所から“地下にスタジオがあるマンションに2人ずつ住んでもらう”って言われていたのに、次の週に社長が夜逃げだもんね。事務所がなくなっちゃった。しょうがないから俺が部屋を借りて、メンバー4人でそこに住んだ。引っ越せるまでみんなで働いてね」
──大変な状況だと思いますが、それでもバンド活動は続けていたんですよね。
「バイトはずっとしていたからね。結局、40歳過ぎて、メンバー全員がバイトを辞められたかな。でも金を稼ぐことが目的なわけじゃないからね。バンドでいい曲を作って、自分の満足のいくライブをやるってことが一番の目的だから。バンドマンの中には、働きながらバンドをやることを負い目に感じている人もいるみたいだけれど、俺はそういうのはないね」
活動休止中は実演販売にリングアナを経験。そこから再デビューへ
──1991年にメジャーデビューされましたが、1996年から3年間、活動休止されています。当時はどうして休止の決断をしたのですか?
「なんか思っていたのと違うなっていうのが大きかったね。世間から求められてないことにイライラしてくるというか。“なんで俺の音楽がわかんないんだ”みたいなフラストレーションの方が大きくなっていっていたよね」
──活動休止中は、さまざまな仕事をされたそうですが。
「包丁の実演販売にプロレスのリングアナなどいろいろやったけれど、雑貨屋の店長は大変だったね。ディスプレイっていう能力が全然、自分になくてびっくり(笑)。実演販売は当時、現場仕事の時に仲よくしていた警備員さんのおじさんが、後に包丁の実演販売の師匠になる人と仲がよくて、“しゃべりのほうが向いてるよ”って言うからやってみようかなって始めた。会いに行ったら、“最後の弟子だ”って言って迎え入れてくれて」
──実演販売の仕事から学んだことはありましたか?
「やってみて、物を売ることの本質がわかったというか。自分がやっぱり本当にいいと思っているものじゃなきゃどんなにうまい口上でも、売れないよね。そこに気持ちがこもっていないと。バンドも結局、同じなんだなって気づいた。本当に自分でいいと思ってないと、やっぱり人にちゃんと伝わらない」
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──怒髪天の音楽を表す「JAPANESE R&E(リズム&演歌)」とは、どのような音楽でしょうか。
「演歌の神髄というか日本人の心というかね。失恋したら北に行くみたいな(笑)、日本人の共通認識や古きよき概念という感じだね。日本で暮らす同世代の人たちが感じるものかな」
──さまざまな苦労がありながらも、再度2004年にメジャーデビューされたのはどうしてですか?
「最初のレコード会社だった日本クラウンで俺らをデビューさせてくれたディレクターが、今の所属レーベルのあるテイチクに移っていたんだよね。それで“もう1回やらせてくれ”って言ってきた。俺らは“もういいよ”って3年くらい断っていた。でも“このままじゃ死に切れん”っていうからね(笑)。じゃあ、一緒にリベンジしようかって始めたんだよ」
──その時は、音楽で食べていく覚悟ができてたってことでしょうか。
「いいや。最初からそんなに稼げるわけじゃないから、全くバイトしなくてよくなるわけじゃないよね。バイトの割合がどんどん減っていって、“あれ、ゼロになったよ”っていう感じ。やっぱりメジャーのメリットは、インディーズでは届かないところまでCDが届くことだと思う」
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──バンドが軌道に乗り出した時に、増子さんが“キャンペーンで新幹線に乗れた”という発言をされたのを覚えていますが……。
「(新幹線移動なんて)本当、すげえなって思った。ちょっとうれしかったね。でも最近は逆に俺が気遣うようになったよ。“ここはもうちょっと経費を下げて”なんて。なんで俺が考えているんだっていう(笑)」
──怒髪天はバンドだけではなく、レコード会社やスタッフの方々も含めて一緒に戦っている感じがします。
「それはやっぱり一蓮托生(いちれんたくしょう)だと思っているからね。だから“お金をかける部分はここじゃなくていいんじゃない?”って言うし、今はそういう話ができる環境に恵まれてラッキーだって思う。どんなに金をもらっていても、自分たちのことを本当にいいと思ってないチームだったら、それはやっぱり不幸だからね」
武道館ライブはご褒美。ファンのみんなに会うため日本各地でライブの日々
──2014年1月12日には念願の日本武道館でのライブを行っています。武道館が決まった時、どう感じましたか?
「俺は最初、反対したんだけど。そんな大変なことで借金したりしたらどうすんだよって思った。でもメンバーから“借金なんて働いて返せばいいじゃん”って言われた。“このチャンスを逃したらもうないですよ”って言われるし、“じゃあやるか!”って腹をくくったけど。その後は、とにかく忙しかった! ライブの1年前に開催発表してプロモーションを1年かけてやるなんて、俺らの周りでは誰もやったことがないチャレンジだったけど、面白かった」
──怒髪天のメンバーが武道館のステージに立った時、ファンをはじめ親しいミュージシャンもみんな泣きそうなくらいうれしかったと思いますよ。
「俺が一番泣いていたけどね(笑)。あれは俺らだけで成しえたものではないし、長くバンド活動を続けてきたご褒美をもらったって思っている。怒髪天の活動を外から見た時に、武道館ライブは一番大きなものだと感じているし、お客さんに対しても、大きな借りを作ったなと思っているよ」
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──怒髪天は今でも全国各地のライブハウスで演奏しています。ライブハウスにこだわっている理由はあるのですか? ツアーは東名阪だけというように、地方ライブが少ないアーティストもいますが……。
「それは売れているバンドじゃない(笑)? やっぱり、バンドは、全国各地津々浦々をまわることが醍醐味(だいごみ)だしね。1年に1回でも、その土地のお客さんにとっての祭りみたいなものになったらいいなって思ってライブしている。やっぱり生で見てもらいたいからね」
◇ ◇ ◇
第2弾インタビューでは、50代を孤独に過ごさずにすむ方法や、コロナ禍でのライブ活動など、増子さんのロックに対する熱い思いを聞いていきます。
(取材・文/池守りぜね)
〈PROFILE〉
増子直純(ますこ・なおずみ)
1966年、札幌市出身。怒髪天のボーカル。一度見たら忘れられないエモーショナルなライブスタイルと、その真逆をいく流ちょうなMCが混在するステージは圧巻。その気さくなキャラクターで「兄ィ」の愛称で親しまれている。過去、ゲーム専門誌ファミ通で連載コーナーを持つほどゲームへの造詣も深く、また、お宝鑑定団へ出演するほどの生粋のヘドラコレクターでもある。楽曲提供、TVCM、映像/舞台作品出演も積極的に行うなどマルチに活躍中。
2022年10月19日(水)ダンスホール新世紀(東京/鶯谷)
2022年10月20日(木)ダンスホール新世紀(東京/鶯谷)
開場18:15 / 開演19:00 / 終演予定21:00
前売 1F立見 6600円(税込み/整理番号あり/Drink別)
チケット発売中!
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