これほど「走り」にピッタリくる曲はない
映画の終盤らへんの定番のシーンとして、全力疾走がある。主人公が何かを決意し、「やめろ! 無謀だ!」と言われながらも、肺をゼェゼェいわせて走るのだ。
『フォレスト・ガンプ/一期一会』や『ロッキー』、個人的には『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』のあのシーンなど、私は疾走劇というものにひどく興奮する。感極まってほぼ百パーの確率で涙を流している。映画はやっぱり走らなければならない。
劇中で最も盛り上がりを見せるこのシーンで、必要不可欠なものが音楽である。イントロが流れ、主人公が葛藤を断ち切り、一歩踏み出す瞬間の感動といえば、もう。いけぇ、走れぇぇぇと、私もモブとなって心のなかで叫んでしまう。
恐ろしいことに、劇中疾走に恍惚とする日々を続けていると、いつの間にか音楽を聴きながら「疾走」を探している自分に気づく。登れる山を探す登山家のように「お、この曲、走れるな」と。耳が走りたがっているのだ。
そんな脳内劇中疾走を続けるランナーの一人として、1つ提言したい。星野源の『Crazy Crazy』ほど、「走り」にピッタリくる曲はない。焦燥感、クライマックス感、カタルシス。劇中疾走に必要なすべてを持っている。
イントロだけで、血が湧く感覚になる。なんだろうこのピアノは。ドラムのビートは力強い。鉄工所みたいな音。肉も躍る。中学生のときの自分に聞かせたい。
そして何より、歌が入った途端、主人公としての人格が目覚める。
《お早う始めよう
一秒前は死んだ
無常の世界で
やりたいことは何だ》
全くなかったはずの走る理由が見えはじめる。私は走らねばならない。手に持っていたコンビニの四川風麻婆丼は意味を失う。私はすべてを投げ出し、走らねばならないのだ。
渋谷から御殿場まで走り切ったあたりでハッと我に返る。自分は今ただコンビニから自宅へ移動しただけである。肺は全然ゼェゼェいっていない。おかき1個分にも満たないカロリーが消費されただけだ。なぜ脳内の私は電車で移動しなかったのだろうか。突然の賢者モードに襲われる。
『Crazy Crazy』はそんな力を持っている。心、身体を突き動かす力。そして、空想上の肺がゼェゼェいい始めるその瀬戸際で、いつも垣間見るのだ。歌詞に織り込まれた悟りの境地らしきものを。
詞と詞の間にある言葉にならない何かを感じること、それは禅問答である。星野源の音楽に「野生のブッダ」を感じる一人の僧侶として、前回の『ばらばら』に引き続き、今回は『Crazy Crazy』について思いを馳せていきたい(それすなわち、「源問答」)。
私は『Crazy Crazy』に紛れもないブッダを感じる。それはこの曲が疾走感を全身全霊で表現しながら、同時に二項対立を越えようとする意志が垣間見られるところにあると思うのだ。
星野源は“間”を目指す
《欲望を越えろ》
未だかつてサビ前のブリッジで、欲望の超越を歌い上げるJ-POPのアーティストなんていただろうか。星野源はやはりすごい。
なんとなく私のイメージかもしれないが、J-POPの歌詞、特に疾走感のある楽曲の歌詞は、欲望を肯定する傾向にある気がする。「好きなようにやっちゃえ!」とか「時にはLet’s party!」といった具合に。
『Crazy Crazy』もサビの文言だけ聴けば、「Crazy」の名のもとに、快楽を肯定しているようにも聞こえる。でも、興味深いのはBメロでは決まって「上」を目指していることだ。
《愛しいものは 雲の上さ
意味も闇もない夢を見せて》
《等しいものは 遥か上さ
谷を渡れ 欲望を越えろ》
そして、「上」のモチーフの直後で、一番では「意味」と「闇」が並べられ、そのどちらでもない境地を探す姿が歌われる。二番では「谷」である。谷とは山と山の間を指す言葉であり、ここにも何かと何かの「間」を進もうとする意志が歌われている。
この曲だけではなく、星野源の音楽ではしきりに「間」を歩む姿勢が表現されているように思う。
《自分だけ見えるものと
大勢で見る世界の
どちらが嘘か選べばいい
君はどちらをゆく
僕は真ん中をゆく》
──星野源『夢の外へ』より
その究極が『Same Thing (feat. Superorganism)』だと思うのだけど、その感想は次回に置いておくとして、間を歩むことはつまり、そのどちらにも偏らないことを意味する。追随でもなく、反抗でもない。物事を2つに分ける世界から距離を置くあり方である。
仏教の言葉を借りるなら、それを「中道」とか「無分別」と言い表すことができるが、『Crazy Crazy』もまた、こうした二項対立の超越を歌っているように聴こえるのだ。
なぜ「Crazy」を2回言っているのか
そうした二項対立が生まれるのは、「言葉があるからだ」と仏教では語られることが多い。
ある事象に言葉を置けば、私たちは言葉を通してその事象を認識することができるようになる。しかし、私たちは次第に言葉が仮に置かれたものであることを忘れ、事象ではなく実態のない言葉自体に執着してしまう。その言葉に該当しないものは「そうではないもの」になってしまうのだ。
言葉が固定観念を生み、固定観念は欲望を生み出す。さらに、欲望が生まれるから、欲望通りにならないことも生まれる。つまり、苦しみとは自分自身が作り出した「差」から生まれる。仏教で「欲を捨てなさい」とか「言葉では悟りは表せない」とかと言われるのはそのためである。
『Crazy Crazy』を聴いているとき、私の脳内では《意味も闇もない夢》とは、「言葉で表せるものでも、言葉で表せないものでもないもの」、つまり「意味と無意味の間」として再生されている。
というのも、星野源の歌詞の世界観では、よく「意味」の超越が歌われるからだ。
《意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ》
──星野源『恋』より
《無駄なことだと思いながらも それでもやるのよ
意味がないさと言われながらも それでも歌うの》
──星野源『日常』より
つまり、『Crazy Crazy』はBメロで、意味と無意味の二項対立を超越しようとしているのではないだろうか。すると、少し突拍子もなく聴こえていた2番の《欲望を越えろ》は、世界を2つに分けようとする欲望からの解放を願って歌っているように思えてくる。
疾走感や熱狂とともに、私がいつも胸に焼き付けられているのは、こうした二項対立の超越を目指し、意味という尺度すら越えようとする、極めて達観した星野源の眼差しなのだ。
こうした観念が頭をぶわぁと駆け抜けたときに、この曲のタイトルが「Crazy」ではなく「Crazy Crazy」である理由が、ふと言葉になってすとんと落ちる瞬間がある。
おそらく「Crazy」じゃまだ足りない、さらに狂って、狂い続けなければならなかったのだ。「狂う」という行為は、既存の意味から離れるための手段としてよく使われる。でも、それでは意味への「反抗」であり、単なる「無意味」に収まってしまう。星野源が目指しているのは、「意味」でも「無意味」でもない、その「間」なのである。
だから、一度の狂いでは足らず、すでに《可笑しい頭》をさらに振り続けなければならなかったのかもしれない。無意味の、無意味の、無意味の、無意味の、そのまた無意味。二項対立から離れるためには、永遠に狂い続けなければならない。それが『Crazy Crazy』という題に込められた祈りなんじゃないかと、私の耳はそう言っている。
僧侶の自分からしたら、欲望と向き合い、無分別の境地を目指そうとするこの曲に、畏敬の念が尽きない。《一秒前は死んだ》として《無常の世界》を生きようとする姿は言わずもがな、仏教の死生観である。もちろん仏教に精通している植木等への敬意を込めた表現が組み込まれていることも承知の上、私はこの『Crazy Crazy』に仏の影を感じてならないのだ。
星野源の歌詞には、こうした解釈を挟み込むことができる余白と、楽曲間を通底している確かな哲学がある。だからこそ成り立つ、禅問答ならぬ源問答。
もちろん、こんな言葉による意味づけだって、本来は無意味である。今ここに書き連ねている言葉よりも、私の脳内劇場で繰り広げる疾走劇のほうが、遥かに意味があることなのかもしれない。遠い、遠いぞ、星野源。
ああ。早く家に帰って、四川風麻婆丼を食べよう。いや、本当はトマトパスタが食べたいのだけど。
(文/稲田ズイキ)
《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、広告代理店に入社するも1年で退職し、文筆家・編集者として独立する。アーティストたかくらかずきとの共同プロジェクト「浄土開発機構」など、煩悩をテーマに多様な企画を立ち上げる。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)