サラリーマンは1日8時間以上働くと「残業代」が出ます。でも、学校の先生には残業代が出ません。「給特法」という特別な法律があり、給料の4%にあたる「教職調整額」が支給されるかわりに、働いた時間に応じた残業代が出ない仕組みになっています。
「これはおかしい。先生にも残業代を払って!」と言って、裁判を起こした現役の先生がいます。埼玉県内の小学校で教える、田中まさおさん(63歳・仮名)です。
定年を迎える1年前に提訴。さいたま地裁では敗訴しましたが、東京高裁に控訴しています。
田中さんはなぜ裁判を起こしたのでしょうか? 「お金の問題じゃない」と彼は言います。
「学校の、そして日本全体の、『自由』を守るために裁判を起こしました」
それって、どういうこと?
今年8月に言い渡される高裁判決を前に、田中さんの考えを聞きました。
「いまの学校には、自由が全然ない」
田中さんが裁判を始めたのは2018年9月のことだった。月平均で約60時間も残業しているのに残業代が出ない。支払われるのは、1か月に約1万6千円の「教職調整額」だけ。これはおかしい! ということで埼玉県を提訴し、2017年9月から2018年7月末までの11か月間の残業代として、約240万円の支払いを求めた。「先生にも一般の労働者と同じように残業代を支払うべきだ」というのが、訴えのポイントだった。
◇ ◇ ◇
──働いた時間の長さに応じた残業代を支払わない「給特法」は、長時間労働の温床だと指摘されてきました。この制度にメスを入れて先生の長時間労働を防ぎたい。そういう狙いがあったのでしょう?
「それもありますが、ぼくが残業代の裁判を起こした本当の理由は、学校に自由を取り戻したかったからです。いまの学校には、自由が全然ありませんから」(田中さん。以下同)
──学校に自由がないのですか?
「ハンドサインって知ってますか? 先生が拳を高く上げてジャンケンのグーのサインを出したら、『注目』の意味。その手を下げたら『着席』の意味。先生の手の合図で子どもが動く。まるでイルカの調教です。ぼくは“イルカ指導”と呼んでいます」
──なぜそんな教え方が広がるのでしょう?
「ぼくが働く自治体では、新任の先生2人に対して1人の指導教員がつきます。指導教員はたいてい校長経験者です。校長経験者が若い先生にイルカ指導を教えます。要するに、この新人指導システムが悪いのです。しかし、いち教員のぼくには、そのシステムを変えることはできない。でも、なんとかしたい。そう考えて起こしたのが裁判です」
──いったい、どういうことでしょう?
「若い先生は朝7時前に出勤して、帰るのは夜の8時や9時です。1日14時間くらい働いています。明らかな長時間労働ですが、おかしいと思っていない人がほとんどです。この状況を変えたかった。夕方5時に帰宅できれば、『文化』に触れる時間の余裕が生まれます。文化に触れていれば、おのずと自由を求めるようになるはずです」
──田中さんの言う「文化」って何ですか?
「先生自身が勉強し、芸術を鑑賞し、友だちとお酒を飲む。そういう仕事以外の経験を積むことを『文化に触れる』と表現しています。文化に触れている先生は『管理』を嫌い、豊かな発想や活発な議論を尊重します。これが『自由』です。でも、今の学校教育はどんどん『管理』の流れが強まっています。ここで食い止めなければ、やがて社会全体から自由がなくなり、日本が専制国家みたいになってしまうと心配しています」
一審敗訴でも田中さんが得たものとは
昨年10月のさいたま地裁判決は、田中さんの敗訴に終わった。判決は、「教員の業務は自発的に行うものが多く、一般労働者と同じような労働時間の管理はなじまない」とし、教職調整額を支払う代わりに残業代を払わない給特法の制度を是認した。
──地裁判決をどう読みましたか?
「不当判決だと思いました。実際には、先生たちの業務は校長が開催する職員会議によって決められています。先ほど話題にした若い先生たちは、おおざっぱに言えば、1日14時間労働のうち、自発的な業務に費やしているのは2時間くらいなものです。1日12時間働かせておいて残業代が出ないなんて、非常識です」
──地裁判決は給特法を肯定しつつも、最後に「付言」をつけたことでも話題になりました。
《わが国の教育現場の実情としては、多くの教員が一定の時間外勤務に従事せざるを得ない状況にある。給料月額4%の割合による教職調整額の支給を定めた給特法は、もはや教育現場の実情に適合していないのではないかとの思いを抱かざるを得ない》。この付言についてはどう思いましたか?
「付言はあくまで『付け加え』にすぎません。本当に実情に合っていないと考えるなら、裁判で勝たせてくれないと」
──では、一審判決は残念な結果だったんですね?
「でも、裁判を始めたことに後悔は全くありません。裁判を通じて自分の考えを世の中に伝えることができました。ぼくのような普通の先生が、こうやって取材を受けたり、大学の先生と話をしたり。Twitterのフォロワーは1万人を超えました。『学校の先生は自由に発言していい』というメッセージを伝えることができています」
先生が自由になれば、子どもは変わる?
──先生が自由になると子どもたちも変わりますか?
「もちろん。ぼくは、校長から“田中さんのクラスはうるさい”とよく言われてきました。たしかに4月のころはガヤガヤしています。ぼくのクラスが最初うるさいのは、子どもたちに、ある程度の自由を認めているからです。ぼくは理由があれば授業中に立ち歩いてもオーケーとしています。“ランドセルから筆箱をとっていいですか?”と聞く子がいます。ぼくは“許可はとらなくていいよ。ランドセルを開けてれば君が何をしたいのかは分かるよ”と伝えます。ぼくが管理するのではなく、子どもに考えさせます」
──そうすると、静かになりますか?
「最初はうるさいですが、だんだん子ども自身が考えて、『今は静かに着席するべきだな』と気づきます。4月に子どもたちがぴったり着席しているクラスは、先生にそう指導されているだけです。1年が終わりに近づき、3月になって着席するようになったクラスは、なぜ座るべきか子ども自身が分かっています。その差は大きいです」
──子どもを信用するということでしょうか?
「自由にさせておくと、子どもからぼくが学ぶことも多いです。例えば、授業中でも理由があれば立ち歩きオーケーにしておくと、学習内容を理解している子が分からない子のところに行って教え始めます。普段は乱暴でケンカっ早い子が、少し発育が遅れている子をかわいがったり、世話を焼いたりします」
──子どものいい面が出るのでしょうか?
「そうかもしれません。ただ、子どもの自主性が尊重されている結果ガヤガヤしているクラスと、学級崩壊でガヤガヤしているクラスと、簡単には区別がつきません。自由にさせようとして学級崩壊に陥ってしまうこともあります。先生のほうが経験を積み、学んでいかないと、子どもを自由にさせるのは難しいです」
──ふむふむ。
「そう。先生の仕事は難しいんですよ。よく“先生の仕事は大変だ”と言われます。そうじゃない。『難しい』仕事なんです。だからこそ、まずは労働時間を短くして、『文化』に触れる必要があります。先生の文化レベルが上がれば、いい授業、いい学校が増えると思います」
先生の仕事は8時間労働にできるのか?
──いま、先生たちは10時間以上も働いているのですよね? そんな長時間労働なのに、1日8時間労働をめざせるのでしょうか?
「余計な仕事が多すぎます。先生の仕事でいちばん大切なのは、やっぱり授業です。小学校なら1日に4、5時間の授業があります。1時間1時間の授業を大切にすれば、子どもは育ちます。それだけでいい。それなのに、校長や教育委員会は授業計画書や指導案を作らせます。どっちにしろ自分の頭の中では授業の計画を立てます。書類づくりの時間は無駄です」
──学校が先生を管理しようとしている、ということでしょうか?
「若い先生たちの可能性や力を信用していないのではないかと思います」
第二、第三の『田中まさお』に出てきてほしい
さいたま地裁で敗訴した田中さんは東京高裁に控訴した。高裁の判決は2022年8月25日に言い渡される。
──高裁判決にはどんな期待を寄せていますか?
「勝てばラッキーですけど、期待していません。そもそも『給特法はおかしい』という裁判だけど、ぼくは『今すぐ給特法を廃止せよ』という主張には反対なんです。ほかの状況を変えずに給特法を廃止しても、たぶん先生のサービス残業が増えるだけです。教育とは何か、自由とは何か。一人ひとりがじっくり考えないと、この問題は解決しないと思います」
──高裁判決のあとは……。
「高裁で勝てなくても最高裁まで進むつもりですし、最高裁がダメでも、次の行動を考えています。今度は全国の学校を管理する一人ひとりの校長に、もしくは学校の設置権者である自治体の首長に、問いかけてみたいですね。“学校の先生がこんな働き方でいいんですか?”、“それでは日本社会から自由がなくなりませんか?”とね」
──裁判のあとも田中さんの活動は続くのですね?
「この活動はぼく1人では終わらないでしょう。次世代の先生と学校そのもの、さらには日本社会に自由を取り戻すのが目標ですから。ぼくの裁判が終わったら、また誰かが裁判を起こしてほしいです。ぼくは『田中まさお』という仮名を使いました。できればこの仮名を引き継いで、第二、第三の『田中まさお』に出てきてほしいですね」
──これからの先生、子どもたちのためですね?
「ぼくの世代は『仕事がすべて』という人が多かったのではないでしょうか。これからの人には、自分の人生を豊かにしてほしいです。美しく、おしゃれに働いてほしい。そのためには何が必要か考えてほしいと思っています」
(取材・文/牧内昇平)