いつも自転車に乗りながら、歌を歌う。
そこに人がいるかどうかは気にせず、流行り曲から懐メロまで、自分の耳に届くくらいの声で、でも気持ちは大きく歌っている。
通り過ぎる人の目には、とても陽気なやつに映っているにちがいない。もちろん、歌えるのは自転車の上だけだ。歩いているときは、ハミングや独り言すら恥ずかしい。
歌がそんなに上手じゃないのも気がかりな点だ。母いわく、私の歌は絶妙な音痴で、「半音とも言えない、0.3音くらい外れている」のだそう。
でも、音痴であろうと自転車の上ならば平気なのだ。
「あっ、歌だ。あの人、歌を歌ってる。(0.3音外れてる……)」
と思われた瞬間には、ビューン。私はすごい速さで駆け抜けて、私だと認識される前には豆粒と化している。その場にはただ、歌だけが残る。
私の歌に出くわしてしまった人の姿を想像すると、少々いたたまれない気持ちもあるが、なぜかちょっと嬉しい気持ちになる。あの嬉しさはなんなのだろうか。
あらためて自分の行いを振り返ると、これは落としものに近いのではないだろうかと思う。私は歌の落としものをしているのだ。
落としものに出会うと嬉しい。気がつけばいつも路上観察をしているくらいだ。片足だけの靴下、季節外れの浮き輪、演歌歌手のブロマイド。なぜこんなところにこれが。なぜ落とし主は演歌歌手のブロマイドを持ち歩いていたのか。考えれば考えるほど、愛おしくなる。
落としものとは事故である。その不慮ゆえに自己主張のこぼれ落ちた様が、妙に味わい深い。路上にはむきだしの「好き」が落ちているのだ。
私が自転車で歌っているのは、歌の落としものなのだと思う。それはつまり不慮を装った自己主張なのだ。あーそう説明すると恥ずかしい。
歌を歌うことも音楽を語ることも、同じくらい本当は大好きだ。だけど、直接口で語ったり、SNSで投稿したりするのは、あまり得意じゃない。そんな私にとって、原稿は一番落としもののしやすい場所だった。不慮を装ってさりげなく、私は私の好きを落としてきた。いや時には、粗大ゴミサイズの好きを確信犯的に落としたこともあったことは白状しておきたい。それは犯罪である。
落としもの預かり所であったこの連載も、運営の諸事情で今回が最期になった。2022年の4月に始まり、当初はさまざまなカルチャーについて、ひとりのお坊さんの目線から語ろうとしていた連載だったが、結局全7回すべてが星野源になってしまった。その星野源の野生のブッダたるや、やはり何度書いても筆舌に尽くし難く、もう一度言うが、すべてが星野源になってしまったのである。
今回は連載の最期として、どうしても書いておきたいテーマがあった。それは、そもそも「歌」とはなんなんだという話である。
長い前置きになってしまったが、今回も今までと変わらず、落としものをポロッと、やっていきたいと思う。
歌とはなにか
この連載で私がしてきたことをまとめるならば、「ひとりの僧侶が、星野源の歌を聴いて、でかい声で感想を言う」に尽きると思う。
でも、このときの「歌」とはなんなのだろうか。いざ音楽を聴いたときの心のざわめきを言葉にしようと思うと、どうしても「歌詞」への比重が大きくなってしまう。でも、歌詞はただの言葉ではなくて、そこには「声」が同時に響いている。歌詞と声、できるかぎりそのすべての衝動をつかめるようにと努力はしていたが、毎回の原稿でそれを表現することは難しかった。
きっと後悔は過去の原体験から生まれている。第1回にも書いたが、本をあまり読まない子どもだった私にとって、近所のTSUTAYAで借りたCDの歌詞カードは、言葉と出会える唯一の場だった。
こしゃくなことに、私はCDを再生しながら歌詞カードを先に読み、「ははん、そういう曲ね」と浅知恵をはたらかせるガキンチョであった。歌詞として並べられた言葉の羅列から、曲のメッセージなるものを読み取ろうとしていたのである。
でも、不思議だったのは、遅れて再生された「歌」を耳にしたとき、テキストとしては同じ言葉が表現されているのに、全く異なる感動が湧き上がったことだった。纏(まと)わせていた言葉の意味が、歌によってはぎとられるような感覚。それは手によって書かれ、目によって読まれた言葉が、口によって歌われ、耳によって歌として聴かれることで、別の生き物としての命が宿ったかのような瞬間だった。
書き残していたとずっと思っていたのは、その歌の不思議さだった。たくさん本を読むようになり、たくさん言葉を知り、それでも今、歌に救われる瞬間があると確かに思えるのは、歌がひとつに閉じようとする言葉の意味を解放してくれているからだ。
例えば、大切だったものがいつのまにか陳腐に見えてきて、「くだらない」と吐き捨ててしまったとき。その「くだらない」はいつの日か、自分に向かって自分自身を苦しめはじめるだろう。そんなとき、星野源の歌う「くだらない」が切なくも暖かく響いていることを、私は救いと呼ぶのだと思う。
《髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる》
──『くだらないの中に』より
しかも、ただ与えられるばかりではない。星野源から与えられた「くだらない」を、私は自分の口で歌うことができる。その歌は星野源から継承されたものであるが、その響きは決して同じではない。星野源からの贈りものを受けて、私は私の口で私の意味を歌う。当たり前かもしれないけど、それって歌にしかできないすごいことだと思うのだ。
この「地獄」は“あの”地獄ではないし、
《嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ》
──『地獄でなぜ悪い』より
この「ばか」は“あの”ばかでもない。
《これからの色々は ばかで染めよう
ああ もう
ばかなの土は これからもぬかるむ
くだらない心の上 家を建てよう》
──『ばかのうた』より
歌はその響きで言葉の意味を揺らして、歌い手から聴き手へと渡り、聴き手をまた歌い手へと遂げさせて、意味を一と多のあいだで解放していく。だから、歌は聴いていても、歌っていても楽しい。楽しいとは、そうした「わかりそうでわからない」の連続のなかにあるのだと私は思う。そして、その楽しいという気持ちが、いつか自分に向けた意味の有無を問う声をも霧散させてくれるのだ。
《意味なんか
ないさ暮らしがあるだけ》
──『恋』より
《意味がないさと言われながらも それでも歌うの》
──『日常』より
言葉を歌として声に出すこと。それは僧侶となった今の自分からしても、永遠のテーマである。口称念仏と呼ぶが、なぜ「南無阿弥陀仏」と声に出して称(とな)えるのか、私はずっと不思議だった。もちろん、経の解釈によるものであるが、その営みの本当の意味は「人類にとって歌とは何か」というデカい問いから導かれるのだと思う。
またどこかの道端にて
なぜ私たちは歌を歌うのだろう。言葉と歌が同時に誕生したという研究もあるみたいだが、少なくともそれを語るのは、0.3音痴の僧侶のやる仕事ではないだろう。
思えば、星野源は楽曲のなかで、歌そのものを歌っていることが多い。
《君と僕が消えた後
あの日触れた風が吹いて
その髪飾りを揺らす
あの歌が響いた》
──『Hello Song』より
《闇の中から歌が聞こえた
あなたの胸から
刻む鼓動は一つの歌だ
胸に手を置けば
そこで鳴ってる》
──『アイデア』より
これらはどれも贈りものだ。少なくとも自分が野生のブッダだと思える人が同時代を生きていて、新しい楽曲を耳にすることができることを喜びとして生きていたい。正直に言うと、この連載で言いたいことはそれだけである。
さて連載が終わった私はなにをすればいいのだろうか。若輩とはいえ僧侶たるもの、ブッダを目指して修行するべきなのかもしれないが、うーん。
歌。歌しかないだろう。それに、自転車はいいものである。
もしも街中で0.3音痴の歌の落としものを見つけたときは、こっそりと再会を喜んでください。読者の皆さん、これまで読んでくださり、ありがとうございました。またどこかの道端にて。
(文/稲田ズイキ)
《PROFILE》
稲田ズイキ(いなだ・ずいき)
1992年、京都府久御山町生まれ。月仲山称名寺の副住職。同志社大学法学部を卒業、同大学院法学研究科を中退のち、渋谷のデジタルエージェンシーに入社するも1年で退職。僧侶・文筆家・編集者として独立し、放浪生活を送る。2020年フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の3代目編集長に就任。著書『世界が仏教であふれだす』(集英社、2020年)