1986年、39歳でのデビューから現在まで「ひとりの生き方」をテーマに、多くの著書を発表してきたノンフィクション作家の松原惇子さん。松原さんが愛してやまない猫たちとの思い出と、猫から学んだあれこれをつづる連載エッセイです。
第13回→グレちゃんが天国に旅立った静かな夜、亡骸を前に感じた二人でいる幸せ「マミーはグレが世界で一番好き」
第14回
段ボールの中にグレを入れて百合の花を添え、近くのホームセンターの駐車場で葬儀社に手渡した。自宅からグレを見送るのが辛かったからだ。車の外でおじさんが待っていた。ペットの送り方は人それぞれだ。先代のメッちゃんが亡くなったときは、友人に手伝ってもらい、百合の花を一輪添えて、実家の裏の河原に二人で埋めた。あれから10数年立ち、河原にはこっそり埋められる場所もない。
ネットで調べたところ、昨今は、亡骸を引き取りに来てくれるサービスがあることを知り、頼んだ。遺骨をいつまでもそばに置いておく愛情深い方もいるが、わたしはそれを望まない。グレに「ありがとう」の最期の言葉をかけると、その場を去った。
もう猫のことで相談する人もいなくなった
ああ……悲しいというよりは、まるで時が止まってしまったようだ。グレのいない部屋は空き家のようで生活感がまったく感じられない。こんなにも殺風景な生活をわたしはしていたのか。グレの存在の大きさになぜ、気づかなかったのか。なんてバカなわたし。わたしは何を求めて生きてきたのだろうか。仕事? それってそんなに重要か?
メッちゃんが亡くなったときは、家に入ることができないほど辛かったが、グレちゃんのときは、わたしが70代になっていたこともあり、騒ぎはしなかった。しばらく、この状態の中で過ごしながら、グレのいない生活をかみしめていくしかないだろう。
メッちゃんが亡くなったときに、友人の猫博士が言った言葉がよみがえる。「間を置かないで次の猫を飼いなさい!!」またそう言うに違いない。しかし、残念なことに、猫との暮らしを愛した猫博士は70代のときにくも膜下出血で倒れ、長い入院生活を送っている間に、愛猫のベラが亡くなった。きっとご主人の大事を察したのだろう。ベラの気持ちを思うと、涙が止まらない。その後、交流が難しくなったことから、猫博士の死を新聞で知る。享年86歳だった。きっと今頃は天国でベラとラブラブだろうなあ。しかし、わたしには、もう猫のことで相談する人はいなくなった。
日替わりメニューのように「猫を飼う」「飼わない」の繰り返し
考えてみたら、自分もいつのまにか70代になり、人のことだと思っていた高齢者に自分がなっている。70代といえば、いつ死んでもおかしくないお年頃だ。わたしが死んだとしても誰も驚くまい。そんな年齢なのだから、次の猫を飼うかどうかは迷うところだ。もう、十分に猫との暮らしは楽しんだではないか。「あなたが先に死んだら猫はどうするの?」という天の声が聞こえてくる。そして翌日には「老いてこそ猫との暮らしが必要なのでは? 猫のことより、自分の人生じゃないの」と。
毎日、日替わりメニューのように心が動く。そして日替わりメニューのように同じメニューが定期的にわたしを襲う。何をしていても、してなくても、「猫を飼う」「飼わない」の繰り返し。ネットで保護猫を見たり、ペットショップでは買わないと決めているにもかかわらず、うろついたり。グレちゃん似のアメリカンショートヘアの子猫をじっとみていると、店員さんから「抱いてみますか」と促され抱いてみる。ああ、なんて懐かしい感触なのだろうか。連れて帰ろうかと迷ったがやめた。
そうだ、グレちゃんをもらった保護猫団体が今でも駅前で活動をしているか見に行こう。期待せずに、14年前にグレと出会ったその場所に行くと、やっているではないか。すごい! ずっと活動を続けていることに頭が下がる。次の子をもらうとしたらここしかない。
14年前に、グレを譲渡するために自宅まで来た代表の方は、うれしいことにグレのことを覚えていた。「目黒のお宅にお邪魔しましたよね。本のお仕事をしている方よね。あの子は美しい子だったからよく覚えていますよ」
グレが亡くなり悲しみにくれていることなど話す。しかし、その日のケージの中の猫で、気持ちがひかれる子はいなかった。代表の方に、また来ます、と言い残すと、胸がいっぱいのまま車のハンドルを握った。14年前の出会いが昨日のことのようによみがえる。涙が滝のようにあふれ、前を走る車が涙で見えない。わたしは、グレが亡くなってから初めて、声をあげて泣いた。
*第15回に続きます。