博覧強記の評論家・宮崎哲弥さんの新刊 『教養としての上級語彙―知的人生のための500語―』(新潮選書)。中学生のころから「語彙ノート」を作ってきたという宮崎さんが、そこに書きためた1万を超える語彙の中から、ワンランク上の“上級語彙”を厳選し、紹介している。
本書を読み始めると、まずその構成に驚くはず。宮崎さんが自ら厳選した“上級語彙”のオリジナル解説が、太宰治や谷崎潤一郎らの名著の一節を引用しながらつづられているのだが、解説文や引用文の中で新たに出てきた“上級語彙”にも、さらに語釈や作例が入る。その中に使われる“上級語彙”にも同様の解説がなされることが繰り返され、まるで言葉の奥深き迷宮に分け入っていくような作りになっているのだ。
このような「語彙本」を執筆した背景とは? インタビュー記事の第1弾では、宮崎さんに「言葉」や「語彙」について思うことを聞いた。
新しい言葉との出合いで世界に光が差した。“上級語彙”の位置づけは?
──まず、宮崎さんは昔から本をたくさん読んできたのですか?
古典文学とか、デカルトなどの思想本は子どものころに読みましたね。星新一や小松左京の作品なんかも。祖父が読書家で、大量の本が家にあったんです。『世界の名著』とか『世界教養全集』とか有名どころの全集も複数あり、難しい言葉はわからないながらも「門前の小僧、習わぬ経を読む」式に馴れていきました。
ただ、中学生のころはジャック・クストーに憧れて海洋生物学者になりたいと願うようになった。書物から自然現象の観察に興味が移っていったのです。まあこの夢は断念せざるを得なかったのですがね。海洋生物学者として名を上げるには個人所有の船が必要で、大金持ちしか伸びないんです。
──そんな中学生のころから、「語彙ノート」を書き続けているそうですね。
新しい言葉に出合うのが楽しかったのです。出合ったら、昆虫を採集して、標本を作るみたいに自分の手許に置いておきたい。 生物たちが織りなす生態系から言語生態系に関心が向かっていった。言葉ひとつを捕まえると、世界の未知の部分にスポットライトが当たるような気がしました。こうして言葉の採集がはじまったわけです。
最初は、漢字、読み方、意味、用例を辞書から手書きで写してノートにまとめていました。今ではパソコン上やスマホ上のファイルにメモしていくようになりましたが、これまでに“採集”した言葉は、全部で1万5000語を超えています。
──改めて「上級語彙」とは?
もともとは言語学者の鈴木孝夫さんが考案した「高級語彙」というアイディアを使おうと思っていたのです。日常生活で誰もが使う易しい言葉を「基本語彙」、学者や専門家が用いる難しい言葉を「高級語彙」と分類された。鈴木さんは「高級語彙」について、英語の場合はギリシャ語やラテン語に語源を持つため一般人にはわかりづらいと指摘されていました。そうするとこの分類では「基本語彙」は日常語、「高級語彙」は専門用語、学術用語ということになりますね。しかし日本語の場合、もうひとつ別のカテゴリーを設定できると思ったのです。日常語ほど頻繁に使われてはいないが、専門語、学術語ではなく、文学作品やかしこまったスピーチや硬めの講演、ブログやSNSなどの評論文に使える、少しだけ日常語を超えたボキャブラリー。これを「上級語彙」としました。
これまでの“語彙増強本”を調べてみると、教育学者の齋藤孝先生の著作をはじめ、大変すばらしい本が多くあります。しかし、どちらかといえばアッパーな日常語、いわば「中級語彙」の本がほとんどです。そこでここには需要があるな、と判断した(笑)。
とはいえ、この本で扱っている「上級語彙」はむやみに難しい言葉ではありません。ひと昔前ならば小説や新聞などにほとんど日常語のような扱いで使われていました。本書では文学作品や思想書などのほかに、ヒットソングやアニメ主題歌の歌詞、映画の台詞などからも用例を取っています。日常語の地続きにあるものばかりで、一度か二度は触れたことはあるけれど、意味を確認したり、自ら使用するほど習熟してはいないような言葉を集めました。
大人の国語力の立て直しも目的のひとつ。本書の構成には緻密な工夫が
──そういう狙いがあったんですね。
国語力の衰退というのは問題意識のひとつにありました。例えば、「植え込み」とか「生垣」という日常語すら覚束(おぼつか)ない大学生が出てきているのです。トップクラスの偏差値の大学の学生で。
語彙力の衰退は、「底辺」においては、石井光太さん『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(文藝春秋刊)に出てくる、「オノマトペ(擬音語、擬態語)でしか自らの罪を説明できない非行少年」を生み出しています。
語彙力は国語力の基本ですから、とりあえず私は「上」の方から引き上げていこうと思ったのです。
──本書の構成は、語彙を辞書のようにただ羅列しているのではなく、宮崎さんがつづる文章や引用文の中で、その一つひとつが紹介されていきます。
本書のスタイルはかなり工夫しました。大人はどうやって語彙力を増強するのか。どうやって新しい言葉に出合い、それを定着させ自家薬籠中(じかやくろうちゅう)のものとしていくのか。そのプロセスを語彙集という制約のある作りのなかで再現するためにはどうすればよいか。
(自家薬籠中のもの:手もとの薬箱の中にある薬品のように、いつでも自分の思う通りに利用できる物や人など。思うさま使いこなせるもの。/『教養としての上級語彙―知的人生のための500語―』より・以下同)
まず掲載する「上級語彙」を500〜600語ほど選んで、本文を読み進めるうちにその言葉たちに自然なかたちで出合えるように本文や語釈文、作例に埋め込みました。本文中の語彙は山括弧〈 〉で囲ってあり、その直後に辞書的な語釈や作例が載っています。さらに、その語釈や作例に次の語彙が埋め込んである、という仕掛けです。
呉智英さんがこの工夫を週刊文春の書評で「解説文中に、その言葉を意図的に使い、すぐ後で出典を示す手法は、国語の名教師などが得意とするが、本書もこれに似ていようか。難読語を羅列しただけの類書もよく見るが、それでは記憶に残りにくい」と評価してくださったのはうれしかったね。
身につけた語彙が増えれば、事物を多角的にとらえることができる
──抽象的な質問になってしまいますが、言葉とは、何なのでしょうか?
「それは大変難しい問題で、いずれ一書をなすつもりです。これまで私が論じてきた仏教というのは、常に言語を問題にしてきたわけです。そんな仏教哲学的な立場から言語をどうとらえるかということは、絶対に考察しなければならないと思っています。
この本に絡めていうと、辞書の定義上では同じ意味の言葉があるじゃないですか。例えば、「笑う」「笑む」「ニコニコする」。本書では、『莞爾(かんじ)』という難しい言葉も取り上げましたが。
(かんじ【莞爾】:にこにこ笑みを浮かべるさま。にっこり微笑するさま。にこやかな様子。「莞爾として笑う」「莞爾と笑みを含んだ」/『教養としての上級語彙―知的人生のための500語―』より・以下同)
それぞれ辞書で引くと、おおよそ同じ意味と書いてある。辞書というのは「ある言葉を別の言葉で定義する」ことを旨とする書物ですから、まあ仕方ないのです。しかし「笑む」「笑う」「ニコニコする」は、実は意味も用法も違うでしょう。よく、難しい表現など使わず、同じ意味の易しい言葉に言い換えて使うべきだ、なんていわれますが、違うんですよ。 極論するなら、ひとつとして「同じ意味」の言葉なんてないんです。この本で二重否定の用法について詳解していますが、二重否定を単純に肯定とみてはいけない。二重否定を使うべきところというのは必ずあるのです。「認めざるを得ない」と「認める」とでは違うでしょ。でもこの違いを言葉で表すのはすごく難しい。
──“言い表すことはできないのだけれど、それぞれなんだか違っている”という理解ができるようになるんですね。
はい。つまり、言葉の多様性というものが、事物の多様性をもたらすといえます。語彙が増えるということは、この世界における人の認識や感覚の細やかさ、思考の分明さと複雑さを緻密に捉えられるようになるということです。
この本で取り上げた、伊丹十三さんの例もそうですね。漢籍に親しんだ伊丹さんは、「しずむ」「あかい」といった何気ない言葉でも、何通りもの漢字で細かな使い分けができたといいます。
(だから私は、たとえば「沈む」のほかに「淪む」「湎む」を使った。「赤い」のほかに「朱い」「紅い」「赫い」「丹い」「赭い」「緋い」を使った。/伊丹「辞書」『再び女たちよ!』文春文庫)
また、複雑な社会問題や政治問題について、すごく単純にしか理解できないということは、実は言葉の「平明」化に起因するのではないかと思っています。言葉が「平明」化するというのは、世界が平板化してしまうことと同じなんです。
(へいめい【平明】わかりやすく、明快なこと。「平明な解説」「平明に記す」)
宮崎さんが語る、めくるめく言葉の世界。インタビュー第2弾では、本書で取り上げられた実例をいくつも交えつつ、現代において誤用されている語彙や、使われ方が変わってきた語彙について、詳しく教えてもらう。
【取材・文/篠原諄也】
【PROFILE】
宮崎哲弥(みやざき・てつや) ◎1962年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部社会学科卒業。政治哲学、生命倫理、仏教論、サブカルチャー分析を主軸とした評論活動を行う。著書に『いまこそ「小松左京」を読み直す』(NHK出版)、『仏教論争』(ちくま新書)、『知的唯仏論』(新潮文庫、呉智英氏との共著)など多数。