家業を離れ、自分の力で生きていくことを決めた麻生要一郎さん。3回目(全5回)では、本当の意味で転機となった、最愛の母との永遠の別れについて語ります。
◎麻生要一郎さんの唐揚げ 第1回:養母の死
◎麻生要一郎さんの唐揚げ 第2回:新しい人生のはじまり
建設会社の3代目として働いたのち、知人に誘われ新島で宿を始め料理人の道へ。その後、不思議な縁に導かれて高齢姉妹の養子となる。主な著書に『僕の献立』『僕のいたわり飯』(ともに光文社)がある。
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お荷物にはなりたくないの
敷かれたレールを走っていただけの僕の、レールから外れた新しい人生は苦難に満ちていた。
友人たちと始めたバーやカフェもなかなか軌道にはのらず、24時間365日を自分のために使っても、なかなかうまくいかないものだと思った。これでは、お金も自信も失うばかり。
もっと自分の手を動かすことで、確かな手応えを得たいと思っていた矢先、『仕事百貨』という求人メディアをやっている中村健太氏に出会い、その縁で知り合った「東京R不動産」の林厚見氏と紆余曲折の末に伊豆諸島の新島で宿をやることになった。その宿をやったことで、僕は自分の人生をすっかり取り戻したと思っている。その機会を与えてくれた二人には、いつも感謝している。
話は少し遡る。
父が亡くなり、僕が会社に入る直前、母は乳癌の手術をした。
「学生最後の春休みを満喫してね」と母は言いながら、僕の予定を2日間だけ確認した。できればその2日間だけ予定を入れないで欲しいと言う。
何事か尋ねると「私、乳癌なのよ、入院の日と手術の日だけ、悪いけど付き合って」と言われてびっくりした。
毎日一緒にいたのに、気がつけなかったことが本当に情けなかった。
母は病院食にほとんど箸をつけない。食べないと手術に耐えられないと思い、僕は朝昼晩と何かしらを病院へ届けた。食後のコーヒーも母には欠かせない習慣だった。癌のステージは3。
父が亡くなり、慣れない会社での心労、僕が会社に入るまではと耐えたのだろう。僕は毎日、ごめんねという気持ちで眠りについて、毎朝、全部夢だったらいいのにと思いながら起きていた。手術は成功、やがて母にとって最愛の人となる紳士にも出会い、チョビ(猫)も母の心身を支え、約15年は全く再発などの気配はなかったけれど、紳士が病気で急逝。母は2度も愛する男性を最後の言葉もなく失った。
その悲しみはいかばかりかと思う。凛とした美しさと強さのある母。彼の訃報の際には電話でしくしく本当に悲しそうに泣いていた。僕は、母と地元を離れて、一緒に暮らすことを提案したけれど「私はあなたのお荷物にはなりたくないの、誰かの役に立って生きたいの」と言って、ある高僧のお手伝い役を始めて、楽しそうだった。
チョビのことをよろしく
それから1年半が過ぎ、いろいろと落ち着きかけた頃、僕は栃木県の黒磯で友人のお店の立ち上げを手伝っていた。ある日、母から電話があり「私ね……入院しないといけないのよ、これから……そっちへ……チョビを連れて行くから預かって……くれない?」
頭をガーンとやられたような衝撃に見舞われた。
しかも息がハアハアしていた。
わけがわからず(いやわかっているけど認めたくなかった)、彼女の好きなコーヒー豆とパンを買い、実家へ戻ると、胸水が溜まっていて呼吸が苦しく、結果は出ていないけれど、癌の再発はほぼ確実とのこと。
翌朝、コーヒーを淹れてパンを焼いて食卓に出すと「ごめん、今コーヒーもパンもやめていて……」そう言って、スープを少しだけ飲んで席を立った。
また頭をガーンとやられた気がしてしまった。前回は、手術の前でもコーヒーを飲んでいた。今回も手術をすれば、また回復すると僕は思い込んでいたから、コーヒーとパンの一件は、事態の深刻さを物語っていた。
病院へ行くと、医師が慎重に言葉を選んで経過と状況を説明してくれた。
説明を聞けば、そりゃ癌の再発ですねということなのだけれど、医師は断定せずに再発の可能性が高いとだけ繰り返した。
診察室を出ると、母は車椅子でレントゲンを撮りに行き、待合室の椅子に座ると、すぐに診察室の扉が開いて、僕だけ招き入れられた。
「お母様の現在の症状はお分かりでしょうが、癌の再発です。脳、肝臓、リンパ、随所に転移が見られます。脳の症状か肝臓の症状、どちらが先に出るか分かりませんが、恐らく余命半年、いや3か月くらいかもしれません」
そう言われ、手術や抗がん剤治療も、胸水が溜まっている状態では難しく、胸水を引けば呼吸は楽になるけれど、状況が悪化する可能性もある、抗がん剤も適合性は芳しくなく、術がない。本人にどう伝えるべきかを息子さんと相談したいということを言われた。病院へ向かう車中での会話、本人はもう死を意識している様子だった。私を病院へ送ったら、チョビのことをよろしく、そしていつも通りの生活に戻ってねと言われた。
そんなことはできるはずもない、僕は全てを手放す覚悟をした。
今は母とチョビ、そのことだけを考えようと。
いつでも潔く全てを放り投げられるのは、僕の長所であり、最大の短所だと思う。
葉山は少し遠いかな
母には、体力が回復してきたら抗がん剤治療をすると伝え、1か月くらい入院生活をした。
今回は、食欲がないので差し入れも難しい。美味しそうと思っても、身体が受け付けず、戻してしまう。健康な時には分からない、辰巳芳子先生の命のスープの意味が理解できた。何度かショットグラス1杯分くらい、栄養価をぎゅっと抽出したスープを飲ませた。
しかし、入院していてもやることがないと確信した母は、胸水を引いて欲しいと先生に迫った。その意志は固かった。寿命が縮まっても構わない、最後に苦しいのは絶対に嫌だと。
先生も理解して少しずつ引いてくれた。それと引き換えに凛として美しかった母に黄疸の症状が現れてしまった。顔を洗いながら、いつもと変わらないように見せているけれど、本当にショックだろうなあと思った。
僕と母の間で、こういう時に言葉は要らない、お互いの気持ちはテレパシーのように感じ取れる。呼吸は楽になり苦しくなくなった、母はやることがないならもう退院させて欲しいと再び先生に迫った。困ったなあという顔をしながら、酸素吸入器を自宅にセットする、様子がおかしい時にはすぐ救急車を呼ぶことなど、僕にいろいろと説明して、了承してくれた。
調子がよい時には、出かけることもできた。
病室でじっとしているよりも、春に向かう穏やかな日差しの中をドライブしたほうがいいに決まっている。しかし、日に日に病が進行している感じはあって、一つ一つ何かを手放していく、そんな感じがした。
もう出かけるのは最後かなという調子のよい日、慣れ親しんだ葉山の海を見せたい、見たいと車で出かけたけれど、道が渋滞していた。
母は力なく「葉山は少し遠いかな」と言った。
甘味が食べたいとの希望で、東京ミッドタウンの『虎屋菓寮』で、餡蜜を食べた。母は二口くらい食べて終わりにした。店員さんの接客に思いやりがあり丁寧だった。
母は「外苑西通りを通って、天現寺から首都高に乗って帰ろう」と言った。何も喋らずにぼんやり外を眺めていた。
ある日、買い物に出かけていると、母からのLINEで意味をなさない文字の羅列が送られてきた。心配になり電話をすると「間違えて送っちゃった」そう言った。恐らく目が見えにくくなってきたのだと思った。
帰宅すると母は、ソファーでぼんやりテレビを見るともなく見ていた。エアコンもリモコンではなくて、本体の小さな電源の光を見ていた。全く見えないわけではない、焦点が合わないのかなあ、状況を察し「ちょっと暑いかな?」そう言いながら、リモンコンを代わりに操作した。
母はそれでも、自分の力でトイレへ行った。きっと、事前に右に何歩、左に何歩、そうやって心算をしていたのだと思う。バタンと大きな音がしたりしていたけれど、彼女は何事もなかったようにまたベッドへ寝ていた。弱音も一切口にしなかったし、嘆きもなかった、恐ろしい精神力だなあと思った。
最後の言葉
だけど、体調がおかしいと自分で気がついた頃から、チョビにはいろいろな気持ちを伝えただろうなあと思った。チョビは母が眠りについたのを見計らうと、僕の元へ来て、早く寝たほうがいいよという顔をしてニャアと呼ぶ、しばらくすると階段の辺りで寝室へ行くことを促すように再びニャアと呼び、ベッドに入ると僕のお腹の辺りに乗って、じっと顔を見ているのだった。ムニャムニャ言いながら、夜中に母の様子を見に行ったりしていた。
あまりにできすぎた猫である。
そのあくる日、声をかけると母は反応するけれど、ずっと静かに寝ていた。唇が乾いている。何もいらないと言うので、濡らしたタオルで口元を拭いた。病院へ行こうか? そう言うと、首を横に振る。
チョビは心配そうに母のお腹の辺りを温めるようにくっついていた。ああ、もうお別れの時が迫っていると感じた。
その日はずっとチョビと一緒に側にいた。何かがシュワシュワ抜けていくそんな感じがした。母に随分と苦労をかけたことを謝った、あなたの息子で幸せだったこと、そして次に生まれ変わってもまた親子でねということ、次は僕が親の立場でいいからたくさんわがまま言っていいからねと。
夜になり、母の目がパッと開いた時があった。
僕とチョビのほうをしっかりと見て「私はもう大丈夫だから休みなさい」そう言って、また静かに目を閉じた。
母は愛する人を2人も、最後の言葉もなく失った。人が亡くなる時、最後の言葉を伝えられるなんてことは稀なだとは思うけれど、母は自分が味わった苦しみを、僕には残すまいと、最後の力を振り絞って言葉を残してくれた。
僕とチョビは、しばらく側にいて、すやすや寝ているような気もしたので、自分たちのベッドでゴロゴロしていた。
新しいスタート
早朝、様子を見にいくと、母は亡くなっていた。
自宅でなくなったので、警察の現場検証もドラマのように行われた。
チョビに母とお別れの対面をさせた後、僕の部屋に連れて行き、ここにいてねと言い聞かせた。鑑識の方に状況を聞かれている時、上から扉を叩くようなドン、ドンと言う音が聞こえた。現場は当然凍りついた。何の音ですか?と何か疑わしい視線を向けられた。実は上の部屋に猫が……と言うと、そのおじさんも猫を飼っているらしく、じゃあ上で一緒に話を聞きましょうと笑顔で言ってくれて、扉を開けるとチョビが大きな声でニャアーと鳴いた。
鑑識の方が「そうか君も一緒にお話したかったのか、偉いなあ、可愛いなあ」と撫でてくれて、チョビは誇らしげだった。僕が抱えると大人しくなり、真剣な顔で一緒に話を聞いていた。
会社を離れてから、親戚付き合いもなくなっていたので、代わりに友人たちがたくさん集まってくれて、告別式が終わるまで、仕事を調整したり、休んだりしながら、ローテーションを組んで側にいてくれて、本当にありがたかった。
セラピストの友人が、毎日眠る前にマッサージをしてくれた。朝昼晩と誰かがご飯を作ってくれたり、買って来てくれたり、贅沢な時間だった。お通夜の後には、好きだった韓国料理屋さんに行って、友人が「要ちゃんスタミナつけなきゃ」とサムギョプサルのニンニクをたくさん食べさせるので、翌日の告別式はニンニク臭かった。
告別式の後は、行きつけだった蕎麦屋さんへ行き、たくさん食べて、飲んで、たくさん笑った。悲しんでいるよりも、友達とくだらない思い出話で笑っているほうが、母だって安心するはず。
四十九日の納骨まで、母の遺骨は和室の祭壇に置いていて、チョビはずっとその側を離れようとしなかった。
実家は会社の名義だし、返さなくてはいけなかったので、カレンダーに猶予時間とゴミの日を書き出して、とにかく片付けた。
母の整理術は完璧だったから、片付けは本当にやりやすかった。これからチョビと二人、新しいスタート。持って行けるものなんてどうせ限られている。生まれたばかりの頃の何冊かの僕のアルバム、父と母の結婚式前後のアルバムだけを抱えて、あとはだいたい処分した。母はもうこの世にいない、実家も返すから帰る場所なんてない。この後、待ち受ける予想外の運命など知らずに、チョビとの暮らしはこうして始まった。
(第4回は11月5日18時公開予定です)