《子どもには好きなことをやらせる。自分で道を選ばせる。親は子どもが選んだ分野で全力の力を発揮できるように手伝ったり、見守るのが役目》(邊土名求著『ISSA PAPA 子煩悩魂』より)
DA PUMPのリーダー・ISSAの父、邊土名求(へんとな・もとむ)さんの言葉だ。
日本を代表する男性ダンス&ボーカルグループ、DA PUMP。’97年のデビューから25年、その道のりは決して平坦ではなかった。メンバーの脱退と交代、事故、人気の低迷などさまざまな試練に見舞われ続けていた。だが、ISSAは諦めずにグループを守り続けてきた。それができたのも父、求さんの“教え”があったからこそ。
無類の子ども好きで、見守りながら自由にやらせる──。ISSAいわく「子どもと一緒になって遊べる大人」の求さんに、6人の子どもたちの夢を見守り続けた子育て術を聞いた。
6人の子どもたちに恵まれて
求さんは1948年7月、沖縄県に生まれた。父親は占領下の沖縄に駐留していたアイリッシュ系アメリカ人、母親が沖縄人(ウチナーンチュ)のハーフ。物心がつくかどうかのころにアメリカ兵の父親は単身帰国、それ以後、再会は叶(かな)わなかった。
「母子家庭で育ったため、できなかったことも多い。それに父親の記憶はほとんどありません。父親像がなかったため、私なりに試行錯誤していました。“父親がいたらこういうことを聞いてくれたんだろうな”とか、“こういう話をしたんだろうな”とか。だから子どもたちと一緒に率直に話し、一緒に成長してお父さんになった。長女が今47歳なので私もお父さん47歳です(笑)」
2回の結婚で、ISSAら6人の子宝に恵まれた。
「最初の妻との間に3人、2回目の妻との間に3人。長女は元歌手の里中茶美(ちゃみ)、長男は一茶(以下ISSA)、次男に二茶(にーちぇ)、三男・茶三海(ちぇすか)、次女・海(かい)、三女・茶里海(さりか)です。子どもたちの名前には“茶”という文字を使っていますが、これは大変縁起のいい漢字。そのおかげか、うちの子たちは今の世の中で夢をみんな持てた。夢を持つことって実は結構難しいんです」
夢──これこそが求さんが子育てをするうえで特に大事にしてきたこと。
「茶美は歌手になること、ISSAはダンス、二茶はゴルフ、茶三海はモータースポーツ、海は医師、茶里海はゴルフとそれぞれが夢に向かって全力疾走してきました。中には、途中で挫折した子もいます。だけど夢を持ってそれを追いかけた経験は彼らを大きくしました。私はそれを誇りに思っているんです」
進学校に通うISSAから笑顔が消えた
子育て中は大きな決断を下さなければいけないときが多くあるもの。求さんはISSAが中学のとき、彼の運命を決める決断を迫られた。
「ISSAは子どものころからスポーツも勉強も万能だったので那覇市にある興南中学を受験させたんです。そうしたら見事に合格して。バス通学で1時間以上かかる道のりをよく見送ったものです」
当時ISSAが通っていた興南中学は沖縄県内屈指の進学校。有名スポーツ選手や著名人も多数輩出している中高一貫の私立校だ。ところが入学してしばらくするとISSAのトレードマークだった笑顔が消えていることに気づく。
「小学校のときは笑顔いっぱいだった彼が、日に日に寂しそうな顔をして元気がなくなっていく。バス通学の疲れが出ているのだろうとしばらく見守りましたが、2年生になるころになってもまだふさぎ込んでいる。理由を聞くと“友達とダンスがしたい。(地元の)コザ中学に行きたいんだ”と言うんです。コザはアメリカ文化を象徴する“沖縄のニューヨーク”と呼ばれる場所です。ISSAや地元の友人は小学生のころからこの外人通りと呼ばれる場所で踊っていました。ダンスの才能があるなら伸ばしてやりたいと思う一方で、私が高校中退しているものですからいい高校を出てほしいという親の思いもありました」
当時のISSAといえば、まだ友達と遊びの一環としてダンスをしていた時期。将来を考えたとき、ダンスなら卒業してからやればいい。多くの親は思うだろう。だが求さんは違った。
「中学受験をして入った中学ですし、大学進学率も高い。そこで学ぶほうがいいと最初は反対する気持ちはありました。でも彼は夢を、ドリームを持っていた。それを潰していいのか、と考えました。ダンスなら学校が違ってもできますが1時間以上の通学で、帰ってきたときには踊っている友達も家に帰っている時間。彼の孤独感は理解できました。ISSAも納得して受験した進学校ですが、人間の気持ちは変わって当然です。高校は必ず卒業するという条件をつけて転校を許すことにしました。そのときISSAが中学生になって初めて屈託のない笑顔を見せてくれたんです」
結果としてはその判断が正しかったことになる。もしISSAが地元の中学に転校し、仲間たちとダンスを続けていなければ、DA PUMPはこの世に存在しなかったのだから。しかし、うまくいくことばかりではない。
「三男の茶三海は高校時代までモータースポーツをしていました。しかし、大学受験の時期に差しかかり、将来のことを考えたときに夢を変えたのです」
多額の費用がかかるモータースポーツの世界。とても家族の収入だけではやっていくことができない。だが、スポンサーを得ることも容易ではない。
「彼は高校3年生まではやってきましたが、それ以上のことは求めなかった。自分で夢を閉じたのです。しかし、だからと言って夢がなくなったわけではありません。今度は大学に行ってやりたいことができたそうです。改めて応援していきますよ」
子育てのポイントは「周囲の助けも借りること」
子育ての秘訣について尋ねると、求さんは笑った。
「秘訣はないですね(笑)。言うなれば、休みの日に一緒にいろいろな経験をして、一緒に楽しむことでしょうか。子どもと一緒にいるのが楽しかったからなんですけどね」
子どもたちの目線に立って何がいいことなのかを常に考えていた。子どもたちが頑張ること、それが求さんの夢でもあるのだ。求さんが気をつけていたことは、
「できるだけ子どもと一緒の時間を持つこと。スマホを見ない、飲みに行ったときは1時間でも早く家に帰る。そして子どもたちと過ごす。スポーツをするのも大事。そこでいろいろな話をする。お父さんがそうした時間をつくってくれることは子どもたちにとっても嬉しいことなんです」
だが子育ては自分ひとりでやろうとは思わないこと、と続ける。
「息子たちは小さいころからモータースポーツをしていました。上下関係もある世界なのですが、コーチや先輩たちが親の代わりに叱る。それは技術のことだけではなく、人との接し方、礼儀についてもです。親に言われたことには反発しても周囲の人たちが言うことならすんなりと聞いてくれます。親がなかなか言えないことは、周囲に手助けをしてもらうことも大切です」
今は学校の教師でさえも児童を叱るとクレームを入れられてしまう世の中。信頼できる周囲の大人が子どもをしつけてくれることは子どもの成長にもつながるのだ。
「また、子どもたちには英語をマスターさせようと思っていました。それは私がハーフなのに英語が話せなくて苦労した経験からです。スポーツや芸能活動もそうですが、私が苦労したことやできなかったことを鑑(かんが)みて、将来に役立つ環境を整えてあげたいと考えました。
ただ、実践することも大事だと思いますが、子どもには子どもの価値観があり、親には親の、人生の荒波を潜り抜けてきた価値観があります。どちらの価値観が正しいのか角を突き合わせるのではなく本音を語り合い理解して、ベストではなくてもベターな結論を出すこと。親子間に信頼があって初めて成り立つものです」
途中で変わってもいい、小さくささやかでいい。将来を夢見ること。たとえ実現できなくても、目指すものがあることが大切だと求さんは訴える。
「夢を持つことで大事なのは結果ではなく、できる限りの努力をすること。努力そのものを楽しむことでもあるんです。することに意味があり、結果的にはうちの子どもたちはみな夢を追い、のびのびと育ってくれました。親は寄り添い、支えるだけ。最終的に判断するのは本人です」
ISSAのやさしい言葉に泣かされた
今年11月、求さんはこれまでの半生や、子どもたちへの思い。そして自分の子育ての経験などを一冊の本『ISSA PAPA子煩悩魂』にまとめた。
「実は子どもたちに私の過去についてはほとんど話したことはなかったんですよ。ハーフだったことでいじめられていた少年時代のことなんかは、この本で初めて知ったと思います。本を読んだISSAが“いいんじゃない”と言ってくれたことで心が楽になったような気がしました。加えて“アメリカに行って一緒に(求さんの父の)お墓を探したい”とも言ってくれたんです。これには感動しました。
ISSAは兄弟の中でも特にやさしい子なんです。うちの子どもたちはみんな個性もバラバラで素晴らしい、私の宝です。そんな彼らに残す遺言のような気持ちでこの本を書いたんです」
子どもたちには「無限の可能性がある」と話す求さん。著書の最後にはこう綴っている。
《「親と子は同い年」という言葉があります。親は子を持って親になり、子は親があってこの世に生を受けます。親も子も一緒に年齢を重ねていくのです。私の細胞の遺伝子が六人の子どもに受け継がれています。
子どもたちは私。私は子どもたち。両者は不二・不可分の存在であることに気付いたとき、家庭には真の意味で幸せが訪れるのだと思うのです》
求さんは現在6人の孫を持つおじいちゃん。その子育て術はISSAら子どもたちに受け継がれている──。
(取材・文/当山みどり)