新型コロナは私たちに、「ごく普通の日常」が、いかに尊いものであったのかを教えてくれました。
そして、その思いは大人だけでなく、子どもたちも同じ。
毎日、学校で友達と会えること。
お話をしながら給食を食べたり、運動会や遠足ができたりすること。
そんな「普通のこと」のありがたさを、たくさんの子どもたちが知ることになりました。
今回は、そんな「新型コロナによって奪われた日常」への思いと「明日への希望」を詠んだ、小学5年生の男の子の短歌を紹介します。
短歌に込められた“悔しさ”と“希望”
まず一首。
作者は、鹿児島市在住の小学5年生、稲盛智人(いなもり・ともひと)くん。
短歌とエッセーの季刊誌『華』に、今年、掲載された一首です。
この『華』は、2005年に「闘牛の島」で角川短歌賞を受賞された森山良太氏が、自ら主宰する歌会「華」の季刊誌として、平成2年に創刊したもの。
稲盛くんはこの歌会のメンバーで、季刊誌『華』の常連なのです。
冒頭の歌は、新型コロナによって、今週かぎりで学校が休校になることを受け、そのやるせない思いをストレートに詠んだ、心の叫びのような一首。
同じく、新型コロナによって、バザーも社会科見学も中止になってしまったときには、こんな歌を詠んでいます。
普通にある……、あるのがあたりまえだと思っていた行事が、次々となくなってしまう悔しさ。新型コロナへの怒りが伝わってきます。
しかし……。
たとえ、新型コロナの終息が見えず、学校に行けない日々が続いても、稲盛くんは希望を失ってはいませんでした。
そんな思いが伝わってくるのが、コロナ禍で詠まれた、次のような作品です。
真っ暗な夜の闇にも月はある いつもの暮らし いつもの日常
人生が真っ暗闇に思えてもきっと見つかる一番星が
負けないぞ今だふんばれと言うように青葉はのびる 五月の空に
新型コロナが子どもたちに残したもの
人間の人生には、ときとして「人生観が変わる瞬間」というものがあります。
それは多くの場合、「これまでと同じ日常が続くということは、実は奇跡なのだと知ったとき」です。
例えば、事故や災害、病気などで死にかけたとき。
ごく近い人の死に触れたとき。
あるいは、日常生活が一瞬にして音を立てて崩れたとき。
コロナ禍の子どもたちは、大人でもキツイ、「日常が壊れる瞬間」を経験しました。
楽しみにしていたこと、目標にしていたこと、そうしたものを奪われるという理不尽な仕打ちを味わいました。
いい意味でも悪い意味でも、「人生観が変わった」という子どもが、たくさんいるのではないでしょうか。
しかし、私はこう思うのです。
子ども時代にそんなツラい経験をした彼らは、きっと「心が強くなった」のではないか。
新型コロナは、多くの子どもたちに「日常への感謝の思い」と「強い心」を残したのでは……。
稲盛くんがコロナ禍に詠んだ力強い短歌は、そのひとつの「証し」のような気がするのです。
最後に、稲盛くんがコロナ禍ではない「日常」を詠んだ歌を一首。
いま、ようやく下火になった新型コロナ。
この短歌にあるような「日常」が、1日でも続くことを祈らずにはいられません。
(文/西沢泰生)