「キミはプロになる気がありますか」
だが、聴くとやるでは大違い。教室に参加してみると、三味線は譜面もなければ教則本もない。師匠と同じように弾いてみても「違う」と言われてばかり。まったくわからないままに、ひたすら覚えて弾くしかなかった。
「だけど、ひとつのフレーズを100回聴いて、また次のフレーズを100回聴いてを繰り返し、丸覚えをしながら半年ほどたったころ、何かが見えてきた気がしたんです。こんなにわからないものはないのに、わからなすぎておもしろい。そう感じるようになっていきました」
ところがそのころ、奈々福さんの父親が亡くなった。父が経営していた会社には負債が残っていた。周りのことを考え、不安や悲しみに耐えながら整理しているうちに、ふと「三味線を弾きたい」と思った。久々に教室に顔を出すと、近々、発表会があるという。講師の浪曲師・玉川福太郎さんが出るようにとすすめてくれた。さらに発表会の舞台上で、「キミはプロになる気がありますか」といきなり質問され、お客さんの前で断ることもできずに、首を縦に振ってしまう。
その後、福太郎さんに「うちに遊びにおいで」と言われて出かけていったのだが、これが大きな転機となった。
「生まれて初めて三味線を持った日から9か月ほどで、師匠・福太郎のところに曲師として弟子入りしたんです。実は当時、曲師も浪曲師も不足していた。だから教室を開いて、興味を持った若い子を浪曲の世界に引っ張り込んでしまえ、というミッションがあったみたいです(笑)。私はまんまとそれに乗せられてしまった」
『玉川美穂子』と名前も決まり(2006年に『玉川奈々福』に改名)、週末を使って、曲師として舞台にあがるようになった。だが、フルタイムで働き、残業もあれば仕事を持ち帰ることもある忙しさ。さらに三味線の稽古、舞台、師匠のカバン持ちなど、ひとりで2人分の活動を続けるうち、奈々福さんは疲弊(ひへい)していく。その結果、「まじめにやらない」という選択をするしかなくなっていた。
会社員としては、浪曲以上に、これまでやってきた仕事を優先せざるをえなかったのだ。
「入門から5年たっていました。いつまでもまじめにやらず、三味線が上達しない私に、師匠は業を煮やしたのかもしれません。曲師は浪曲師の呼吸をわかっていないといけないのに、いつまでたっても下手で……。
“おまえは浪曲師のことがわかってない。一席、浪曲を覚えてみろ”と言われました。どう考えても、私には無理。でも、曲がりなりにも浪曲師の声を聴きながら三味線を弾いていたわけですから、耳は慣れている。試しにうなってみたら気持ちがいい。一席だけ覚えてみようかなと思いました」
覚えてはみたが、師匠からはダメ出しの連続。それでも、せっかく覚えたのだからお客さんの前でやってみろと言われた。福太郎さんという人はどこまでもやさしく、弟子の才能をいろいろな方法で探る、懐の深い師匠だったのだ。
結局、奈々福さんはどんどん浪曲師の方向へ走り始め、1年後には勉強会まで開くようになった。そして、その勉強会で曲師・沢村豊子さんと出会うのだ。これがまた大きな転機となった。豊子さんは当時も今も、名曲師である。浪曲師なら誰もが豊子師匠に弾いてほしいと思うような存在。その豊子さんから稽古を許され、奈々福さんは豊子さんの自宅に通いつめた。
「そのうち、おっしょさん(お師匠さん)が、自分に仕事を頼んでもいいと言ってくれて。うちの師匠に相談したら、びっくりしながら“それはすごい。ぜひやってもらえ”と……」
そうこうしているうち、2人で組んで仕事をすることも増えていった。北関東に住む豊子さんは、都内での仕事が遅くなると、奈々福さんが仕事用に借りていたアパートにいきなり来てしまう。そして、あるときから自宅に帰らなくなってしまったのだ。奈々福さんは豊子さんの食事の支度をはじめ、何から何までお世話をしながら編集者として、浪曲師として活動していた。それは2年にもおよび、その経験を奈々福さんはのちに『豊子と奈々福の浪花節更紗(なにわぶしさらさ)』という新作に仕立てている。
「豊子師匠は、あの新作に不服があるみたいなんですけど(笑)、私は事実しか書いていません。借りていた部屋が1K、4畳半なんです。あそこで2人、よく暮らしたものだと思いますよ」