孤立を深める皇太子ご一家、対する秋篠宮家は──
そんなおふたりのきょうだい仲に軋轢(あつれき)が感じられたのは、陛下が皇太子時代のこと。いわゆる世継ぎ問題をめぐって、お子さまを授かるための環境作りの一環で皇太子ご夫妻の公務は減って、秋篠宮ご夫妻に公務の負担が多くなったことや、天皇・皇后両陛下(当時)に多大なご心配をおかけしているといったことなどから、皇太子ご夫妻と隔たりがあるようだったと言われた。
それが顕著になったのは、皇太子さまによる「人格否定発言」(2004年5月)。
「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実」
と発言した同年11月の誕生日会見で、秋篠宮さまはこう苦言を呈したのだった。
「記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、そのうえでの話であるべきではなかったかと思っております」
さらに皇太子さまが、今後の時代とともに変わる公務のあり方について考えていきたいということについても、
「自分のための公務は作らない。私は、公務というものはかなり受け身的なものではないかな」
と異論を唱えられた。
皇太子さまは、公務を黙々とおひとりでこなされ、療養中の雅子さまに寄り添われながら、幼い愛子さまの子育てにもかかわられた。
このころの宮内庁幹部たちは、雅子さまに献身的にかかわっている皇太子よりも、秋篠宮さまのほうが皇室の安定をよく考えられていると称賛していた。
同時に皇太子ご一家は、孤立していった。報道も雅子さまの批判から皇太子さま批判へと移り、当時の宮内庁長官ですら、皇太子さまの「公務の先が見えない」と公に批判するほどだった。
秋篠宮さまの存在が決定的になったのは、翌2005年、妹の紀宮さま(現・黒田清子さん)のご結婚からだった。お相手の黒田慶樹さんは、秋篠宮さまの同級生で、秋篠宮邸に何度も訪れていたことから、キューピッド役を買われたのではないかともいわれた。
'06年には、悠仁親王殿下がご誕生。41年ぶりに誕生した皇族男子だった。秋篠宮さまの存在は、天皇・皇后をご安心させただけではなく、安定した皇位継承を保てた救世主としても大きなものだった。
以降、秋篠宮さまは天皇の定年制や天皇陵のあり方、400年ぶりとなる天皇・皇后両陛下の火葬の是非といった皇室の諸問題について次々と発言なさり、天皇陛下のお気持ちを反映なさっているようだった。
メディアの中には「秋篠宮が天皇になる日」「秋篠宮さまを天皇に」といった記事が出るようになり、書店には“廃太子論”の出版物まで並んだ。
天皇家は揺らいでいたように見えた。'12年からは美智子皇后の発案で、天皇ご一家が意思疎通を図られる場として、陛下、皇太子さま、秋篠宮さまの三者会談が月1回、開かれるようになった。宮内庁長官も同席しての意見交換を行う会談は、天皇陛下がご退位なさる直前まで続いた。