ちなみに北斎漫画の前には、彼のライバルともいわれる北尾政美(鍬形萬斎)が「略画」と名づけて漫画っぽいものを描いている。なんだか「老舗そば屋の暖簾(のれん)」に描かれていそうな、可愛らしいテイストだ。

鍬形萬斎『人物略画式』

 ぶっちゃけていうと、『北斎漫画』はこの表現をヒントにしたとされている。北尾さんも「だいたい、アレやぞ。北斎っちゅうやつはパクり癖があるぞ」とキレまくっている。というのも、『北斎漫画』はめっちゃ売れたので、さぞ悔しかったのだろう。庶民から武士まで、みんな『北斎漫画』を持っていたくらいで、この作品から「漫画」という言葉が浸透しはじめるのだ。

 こんな感じで、江戸時代には「戯画」「鳥羽絵」「略画」「漫画」などと呼ばれて、だんだんと漫画っぽいユーモラスな絵が、コマ割り表現やセリフつきで出てきた。しかも、民衆がそれを楽しみ始めたのである。その背景には「寺子屋が開かれて庶民でも読み書きができるようになったこと」「仮名草子に対する浮世草子のように、肩の力を抜いて読める書物が求められたこと」があったわけです。

当時から漫画はサブカル的な位置づけだった?

 こうして振り返ってみると、平安時代からメインストリームである「やまと絵」に対抗して「戯画」が生まれ、江戸時代には「浮世絵」に対抗して「鳥羽絵(漫画)」が発生した、という構図が、なんとなく見えてくる。

 今でいうと「美術館で西洋美術を見る人」に対して「まんだらけで中古マンガを漁る人」みたいな構図に近い気もしてくる。そう考えると、やはり漫画は誕生したときから、「教養」というよりは、ある意味での「無駄」を愛するサブカルチャーのコミュニティーで楽しまれるメディアなのかもしれない

 しかし、そんな「無駄」を愛せる「余裕」ができるからこそ「ユーモア」が生み出されるとも思える。鳥羽僧正覚猷、一休さん、葛飾北斎と、まじめすぎず、肩の力を抜いて世間を見ていた"変人"だったからこそ、漫画というユーモラスな表現にいち早く気づけたのかもしれない。

 とはいえ、まだ吹き出しも出てきてないし、キャラクター文化も誕生していない。日本の漫画の歴史はここからだ。次回はそんな表現がだんだんと確立されてくる明治、大正時代の漫画についてみていこう。鎖国が終わり、海外のカルチャーが入ってきた日本で、漫画はどのような変遷をたどっていくのだろうか。

(文/ジュウ・ショ)